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ヘルベルト・バイヤー 多面性と総合性

2000年9月2日  


執筆  深川雅文                            


 今年、生誕百年を迎えたヘルベルト・バイヤー (1985年に没す) は、20世紀を代表するモダン・デザインの巨匠のひとりとしてその名を深く刻ん でいる。その活動領域は極めて多彩であった。生地オーストリアからドイツに渡り、若くして、タイポグラフィー、ポスター、広告、装丁、雑誌な どのグラフィック・デザイン、展示デザイン、壁画、写真などの領域で傑出した仕事を行うとともに、並行して画家としても活動。1938年、アメリ カに亡命してからもこれらの仕事をさらに展開させるとともに、第二次大戦後には、建築や環境デザインの領域でも活躍した。領域横断的な創造の多様性とそれらを総合するビジョンこそが、芸術家としてのバイヤーの存在全体を特徴づけている。

 バイヤーの活動は、今世紀に姿を現すことになった新たな芸術家像の典型を示している。つまり、伝統的な画家や彫刻家とは異なり、素材の異なるさまざまな造形領域に通じながら、それらを総合するカを持って、限定された意味での芸術世界だけでなく社会的な次元でも活動するという芸術家の像を体現しているという意味でである。彼をこうした芸術家へと導いた決定的な原動力は、1919年にヴァイマールに創設された造形芸術学校バウハウスで受けた教育とそこでの実践的な活動であった。

 バイヤーは1921年、21歳でバウハウスに入学。学生として3年間学んだ後、若きマイスターとして抜擢され、1928年まで教鞭をとった。その才能が内外に広く知れ渡ったのは1923年のことである。この年、バウハウスの活動成果をアピールする「バウハウス展」が開催されたが、彼は、この展覧会のために、ポスターの習作、絵葉書、サイン表示、バウハウス展カタログ表紙のデザイン、校長グロピウスの部屋の透視図などを手がけ、学生であるにもかかわらず大活躍を見せたのである。

 「バウハウス展」での彼の最も重要な作品のひとつに、バウハウス校舎階段室の壁画がある。バイヤーは、イッテンの予備課程修了後、カンディ ンスキーが指導する壁画工房に進級した。この壁画は、幾何学的な基礎形態と基本的色彩による構成的な作品であり、彼のグラフィックデザインの原型を示している。三つの階段室は、下から、円、方形、三角形が主要なモチーフとされ、それぞれ、青、赤、黄が基調色として塗られている。この形態と色彩の関連は、カンディンスキーの理論に基づいており、バイヤーはそれを実践的に応用している。つまり、20世紀の前衛芸術の理論と実践の精華のひとつが、建築という現実の機能的空間の中に見事に転化された作品であり、ここに、モダニズムのグラフィックデザインと前衛芸術運 動の豊かな結合を見ることができよう。

 バウハウスには絵画の工房は存在しなかった (後に補足的に絵画クラスが設けられはするが) 。にもかかわらず、クレー、カンディンスキー、フ ァイニンガーなど同時代の優れた画家たちが教育に携わっており、例えばカンディンスキーの分析的デッサン、クレーの色彩論講義など、さまざまな教育活動を通して学生たちの造形活動に計り知れない影響を及ぼした。また、実際、少なからぬバウハウスの学生たちが、学校のカリキュラムとは全く離れて、絵画をはじめとした自由な創作活動を並行して行っていた。つまり、バウハウスでは、デザインの実践的活動と絵画など自由な創作活動とが、意識と無意識、日常と祝祭といった相互連関的な関係を成して、学生の活動の全体を貫いていた側面があったことを忘れてはならない。 バイヤーは、まさに、そういう面でも最もバウハウス的な芸術家であった。

 1928年に、バウハウスを去り、指導者としての重責と激務から解放された彼は、一方で、シュトゥディオ・ローラントのディレクターとしてコマーシャルな世界に身を置きデザイナーとしての手腕をふるうとともに、表現者としての自由な創作活動も並行して追求した。1929年にはパリとリンツでの個展を開催。また、絵画のみでなく、写真表現の領域にも独自の世界を切り開き、同年、シュトゥットガルトでの「映画と写真」国際展にも出品。1932年には、11点からなるフォトモンタージュ作品集を発表している。ナチ政権樹立後、多くの同時代の芸術家が亡命を余儀なくされた状況のなかでも、彼は、国内でもデザイナーとしての腕を存分に振るう場を持つことができたが、ナチスの圧力は彼にも迫り来て、1937年には、悪名高き「頽廃芸術展」の出品リストに載せられ、アメリカへの亡命を決意したのであった。

 ナチスは、応用芸術に関しては訴求効果や実用性を重視し、モダニズムに出自を持つ表現も無節操に受け入れたが、絵画や彫刻等のいわゆる「芸術」に関しては、モダニズム芸術を断罪し、民族主義的歴史観と陳腐さが混淆した独自の美学に執着した。バウハウスの画家マイスターたちの洗礼を受けたバイヤーの画家としての仕事は、ナチスが嫌悪する非具象、抽象性の高いものであり「頽廃芸術」の刻印を受けるのは当然の帰結であろう。 1928年以降から30年代にかけて、シュルレアリスムが、彼の創作活動にとって新たな霊感の源泉となって彼の絵画や写真表現に現れてくる。また、こうした創作の実践を通して、バイヤーは、シュルレアリスム的イメージをデザインの中に積極的に取り入れ、グラフィック・デザインにも新たな展開を見せている。戦後から晩年にかけて、彼の画風は、再びその原点に戻っていく動きを見せ、多層的な独自の抽象色彩空間を切り開いていった。

 バイヤーの中で、絵画や写真などの創作活動とデザインの実践的活動の統一を支えていていたものはなんだっただろうか。絵画表現について述べた次の言葉は示唆的である。

 「精神の憧憬は、現実の現象を越えて事物とその諸関係の超・現実性へと向かう。‥‥諸々の概念と物質的な対象が、抽象的な、境界のない空間に置かれる。あるいは逆に、抽象的な構図が、ある現実的な表面を獲得するのだ。‥‥本質は、事物の現象の背景に探さなければならない‥‥。」(バイヤーの言葉の引用『クンストブラット誌』1929年より)

 表現において決定的なものは、現実を越えた抽象的なものにある。この認識は、モダン・デザイナーの表現原理と深層において共鳴していた。「デザイナー」という言葉は、ドイツ語では「エントヴェルファー」(投企するひと)という。ある抽象的な概念や案を先行的に投げかける(「プロ・ ジェクト」する)ひとの意であり、彼は、自らの表現の出発点を現実を超えたところに置くからである。ところで、この認識は、グロピウスがバウハウスにおいて、来るべき芸術家に求めた基本的な態度でもあった。というのは、グロピウスにとって、バウハウスとは、主体(サブジェクト)と客体が二元的に対立する西欧近代世界の枠組みそのものを造形活動を通して超克することを目的とした壮大なプロジェクトであり、そのためには、芸術家には、その意識において物質的な制約(客体)から解放されることが求められたからである。バイヤーが、伝統的な意味での「芸術家」の概念から逸脱しているように見えるのは、まさに彼自身が芸術家の新たな存在の次元を指し示しているからに他ならないのである。


(ふかがわ まさふみ 川崎市市民ミュージアム学芸員〔当時〕)


Herbert Bayer展カタログ

発行日 2000年9月2日

発行者 中村路子

製作  鎌倉画廊


Exhibiton:

centennial(1900-1985)

2 September - 22 October, 2000

鎌倉画廊 Kamakura Gallery



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