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essay「ベルント・ベッヒャー氏を悼む」 

2017年2月15日


執筆  深川雅文


本テクストは、2007年6月22日にドイツの芸術家、ベルント・ベッヒャーが死去したのに際し、共同通信社の依頼により執筆したものである。同通信社の配信により、中国新聞、愛媛新聞、山陽新聞等の全国各紙に、7月初旬に掲載された。本年(2017年)は、ベルント・ベッヒャー没後10年に当たる。改めて、ベッヒャー夫妻の仕事を振り返り、検証する好機である。


出来事  ベルント・ベッヒャー(ドイツ 1931-2007)逝去


キーワード: ヒラ・ベッヒャー、タイポロジー、ベネチア・ビエンナーレ、「匿名的彫刻―工業的建造物のタイポロジー」、デュッセルドルフ美術アカデミー、トーマス・ルフ、トーマス・シュトルート、アンドレアス・グルスキー、カンディダ・ヘーファー

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ベルント·ベッヒャー氏を悼む / 写真表現を現代美術へ解放

深川雅文

  ドイツ現代美術を代表する写真作家として偉大な足跡を残した芸術家夫婦、ベルント·ベッヒャーとヒラ·ベッヒャー。その夫、ベルントが死去した。第二次大戦後、世界をリードしてきたドイツ現代美術界の巨星の訃報(ふほう)は、ドイツはもとより世界中に伝えられた。   ベッヒャー夫妻は1950年代末にペアを組んで以来、ドイツをはじめ、オランダ、フランス、べルギー、英国、そして米国などで、産業社会の証拠物である匿名的な建造物ー例えば、採掘塔、給水塔、溶鉱炉、冷却塔、サイロ、工場などーを大型カメラによって丹念に記録し続けてきた。   一見、冷徹なまでに客観的な写真記録に思われる彼らの仕事は、種類別に採集した個々の写真をさまざまに比較できるように格子状に並べて見せる「タイポロジー」と名付けられた独自の手法を採ることによって、写真の領域を越えて評価を受けた。まず1960年代から1970年代に,コンセプチュアルアートとミニマルアートという現代美術の潮流のなかで国際的に高く評価された。  ドイツ·カッセルで開催されている現代美術の祭典「ドクメンタ」など主要な国際的美術展で1970年代より発表を行い、1990年にはベネチア ・ビエンナーレで金獅子賞(最高賞)を受賞した。  夫妻の業績は、一つには「写真」という表現媒体を、写真固有の記録性という特性を追求しながら「現代美術」の領域に解放していった点にある。このことを示す興味深いエピソードがある。ベネチアの賞は、実は「写真」ではなく「彫刻」部門の賞であった。  ベッヒャーの写真と彫刻のつながりをどう考えるべきだろうか? ヒントは、1970年に出版された最初の作品集「匿名的彫刻-工業的建造物のタイポロジーー」という題名にある。ベッヒャー夫妻の仕事は写真による作品であるが、コンセプチュアルなめんで彫刻表現のあり方に新たな次元を切り開いたことに受賞の意義があったのである。  ベッヒャー作品の力は、世界の見方をより高い次元で構成して世界の見え方そのものを変革し、それによって日常的に覆い隠されている視覚の世界を露呈させるという作用にあったと言えよう。  ベッヒャー夫妻のもう一つの功績は、優れた教育者としてこうした写真芸術の革新を後進に伝え、写真の可能性の拡張に貢献したことにある。1976年、デュッセルドルの美術アカデミーに初めて写真芸術のクラスが設けられた。ベルントはその教授に着任し夫婦で指導にあたった。そのクラスから、国際的に活動する才能あふれる写真作一家たちが多数輩出した。   トーマス·シュトルート、トーマス·ルフ、アンドレアス·グルスキー、カンディダ・ヘーファー…。ベッヒャーの高弟たちは、1990年代から現在にいたるまで現代美術における写真表現の展開に大きな役割を果たした。そのクラスは、今年(2007年)からシュトルートが受け持つ。ベッヒャーがまいた写真芸術の種は、新たな収穫を迎えるのかもしれない。

(ベルント·ベッヒャー氏は、2007年6月22日死去、75歳。)


(ふかがわ まさふみ キュレーター / クリティック)

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