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essay「バウハウスの終焉 デッサウからベルリンへ」

2020年6月号 第69巻 第3号

発行:大修館書店


執筆  深川雅文


バウハウスの終焉 デッサウからベルリンへ


 1919年に設立されたバウハウスは 革新的な造形学校として輝かしい足 跡を20世紀の歴史に残したが、その 歩みはけして順風満帆というわけではなく、新生ドイツ、ヴァイマール共和国が抱え込んだ不安定な社会状況と政治的混乱の嵐の中で存立の危機 に晒されながら前進していった。前回に述べたように、ヴァイマールからデッサウへの移転は、右派勢力による バウハウス批判の高まりに起因するものであった。創設の地を追われたバウハウスを受け入れたデッサウでバウハウスは大きな飛躍を見せた。

 しかし、設立10年後の1929年に 起こった世界大恐慌はドイツ経済にも 大きな影を落とし、各地で右派と左派 の政治的対立が深まり社会的混乱が 高まる中、デッサウでもナチスが勢力 を拡大しバウハウスへの批判と攻撃 は強まっていった。その結果、1932 年、ナチスが多数派となったデッサウ 市議会は9月でバウハウスを閉鎖することを決定する。当時、バウハ ウスに在籍していた日本人学生 (閉校まで合計4名在籍)、山脇巌はこの出来事をテーマに《バウハウスへの打撃》というフォトモンタージュを制作している。横倒しにされたバウハウスの校舎の上を鉤十字の腕章をつけたナチスの将校や兵卒たちが軍靴で蹂躙し、学生たちが悲鳴をあげている様子が劇的な構成で表現されている。山脇は帰国後、同年12月の『國際建築』誌でこの作品と共にバウハウスの状況を報告している。

 三代目校長のミース・ファン・ デル・ローエとマイスターたちは、 この状況にめげることなく学校の存続の道を探り、直後の1932年10月にベルリン近郊のシュテーグリッツにあった旧電話工場を校舎にし私立学校としてバウハウスを再開した。しかし、3 か月後、1933年1月にヒトラーが首 相に任命されて政権掌握し、バウハウス弾圧への準備が整った。4月には 共産主義活動の摘発という名目でナチスの親衛隊と警察が学内に踏み込 んで手入れを行い、危機は極限に高まる。これを受け教授陣は同年7月にバウハウス閉鎖を決定し、バウハウスはその歴史を閉じることになった。


 14年間の活動の中、バウハウスは右派からの攻撃に絶えず晒され続けた。それは、バウハウスという学校の出自の歴史に深く関わっている。誕生に至る初期の経緯をあらためて振り返ってみよう。バウハウスは、歴史上稀な真に「革命的」造形学校であっ た。その誕生は第一次世界大戦直後のドイツの社会状況と深く関わっており、とりわけその革命的性格を理解しなければならない。バウハウス研究の碩学でバウハウス資料館元館長の ペーター・ハーン博士は、ドキュメンタリー映画『バウハウス 原形と神話』(1) の中で次のように述べている。「バウハウスは実際、芸術評議会の産物でした」。大戦末期、1918年11月に起 きたドイツ革命の炎は各地で燃え上がり帝政崩壊と戦争終結に導く。ドイツには社会主義革命の機運が充満していた。1917年のロシア革命がもたらした世界初の社会主義国家誕生の潮流もそれを後押ししていた。

  建築家グロピウスは、革新的芸術家、建築家たちが集結し、社会主義革命を目指すベルリンの芸術評議会の議長となって激動の只中に身を置き、国家による芸術家たちの活動の支援と救済のために尽力した。だがド イツにおける社会主義革命の疾風怒濤は、1919年1月、ドイツ共産党の蜂起が反対勢力により武力鎮圧されて潮目を迎えた。続く2月、ドイツはヴァイマール共和国として生まれ変わる。当時、世界で最も民主的な憲法と称えられた共和国憲法が発布されたまさにその地、ヴァイマールにバウハウスが生まれたのは4月のことである。グロピウスは、革命の機運が急速に退潮していく中、社会主義のユートピア実現の夢を断念したものの、代わりに、バウハウスという学校にその火種を持ち込み、芸術の世界に新たな革命の火を灯したのである。

 バウハウスの革命は画期的な教育内容とそこから生まれた斬新な成果の両輪で推進された。例えば、木材ではなく鋼管を椅子の素材に用いるという発想はその後の家具デザインに計り知れない影響を与えた。それは、グロピウスが掲げた「芸術と技術新たな統一」という芸術革命の実践であった。ところが、その革命性が諸刃の剣となってバウハウスの運命を揺さぶり続けた。モダニズムの推進者に高く評価された新機軸が、伝統を重んじる守旧派からは格好の批判の的となる。その革新性は、右翼勢力からはロシア革命を想起させる「文化ボリシェヴィズム(=過激派)」という言葉によって非難され続けた。こうした攻撃は初期ヴァイマールの時代にすでに始まっており、デッサウ期に右派と左派の政治的対立が深まる中、市議会でのナチス勢力の拡大とともにそのボルテージは高まりバウハウス閉鎖の決議に至る。2代目校長のハンネス・マイヤーは、バウハウスの発展に多大な貢献をしたが、他方、ロシア革命で誕生したソビエト連邦に共感を持っていたため共産主義的思想傾向を持っている人物として糾弾された。

 1930年、学校は、校長マイヤーを解任することで迫り来る政治的攻撃から身を守らざるを得なかった。

 学校の運営陣は、右翼陣営からの攻撃を避けるために、左派に傾くこともなくバランスを取りながら微妙な舵取りを模索したが、

社会的混乱が深まる中、革命思想に未来を託す一部の学生たちによって共産主義的な傾向を持つ機関誌がバウハウスでも発行されていた。こうした動きが最後はナチス親衛隊ならびに警察による学内手入れの口実にされ、閉鎖へと導くことになった。ナチスにより蹂躙されたモダニズムの革命的造形学校、バウハウスという悲劇的イメージの源泉がここにある。


 しかし、事はそう単純ではないことも明らかになっている。ナチスは、モダニズム芸術を自らが推奨する芸術観の対極にある「退廃芸術」(2)として糾弾する一方で、機能性が重視される建造物や宣伝力が重視されるグラフィックデザインなどにおいてはモダニズムの革新性を貪欲に取り込み利用した。バウハウス出身の教師や学生の内、ユダヤ系の人は国外に逃れる道を探らざるを得なかったが、ドイツに残った者の中には、戦時下、第三帝国の建造物の設計や宣伝デザインに協力した者もいた。バウハウス創設100年を経て、その輝かしい成果のみでなく、ナチスとモダニズムの関係を再考する時期にさしかかっているのである。


※図版については、掲載紙をご覧ください。

図1 バウハウス・デッサウ校舎(1925-26) 設計:ヴァルター・グロピウス、photo:Eiji Ina


図2 バウハウス叢書14  L・モホリ=ナギ著 (宮島久雄訳)『材料から建築へ』1929年[初版]/2019年[邦訳新装版]中央公論美術出版


図3 バウハウス叢書4 オスカー・シュレンマー編(利光 功訳)『バウハウスの舞台』1925年[初版]/2019年[邦訳新装版]、中央公論美術出版


図4 利光 功著『バウハウスー歴史と理念<記念版>』2019年、株式会社マイブックサービス

   バウハウスに関する名著『バウハウスー歴史と理念』(1970年初版、1988年新装版)が、バウハウス創立100周年を記念し株式会社マイブックサービスにより復刊。

図5 展覧会図録『きたれ、バウハウス』2019年、株式会社アートインプレッション

  バウハウス100周年を記念した展覧会「開校100年 きたれ、バウハウスー造形教育の基礎ー」が2019年8月から全国5館を巡回中。東京ステーションギャラリーでフィナーレを迎える(2020年7月17日ー9月6にち)。本書はこの展覧会の図録である(デザイン:NOSIGNER)。約320点の図版、16本の論文、「バウハウス宣言」など3本の原典翻訳も所収。展覧会・図録の情報は→http://www.bauhaus.ac/bauhaus100/

   

(1)『バウハウス 原形と神話』(原題:BauhausーModell und Mythos)監督・編集:ニールス・ボルブリンカー、ケルスティン・シュトゥッテルハイム 1999・2009 / ドイツ / 103min ※本作品は、開催中の「バウハウス100年映画祭」で上映中。詳しくはhttps://trenova.jp/bauhaus/


(2)ドイツ語でEntartete Kunst、英語でdegenerate art


(ふかがわ まさふみ キュレーター / クリティック)


「英語教育」

2020年6月号 第69巻 第3号 https://www.taishukan.co.jp/book/b506725.html

発行:大修館書店

発行日:2020年5月14日


バウハウス開校100年 モダンデザインの源流 バウハウスとはなにか

[新連載・3]

バウハウスの終焉 デッサウからベルリンへ


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[新連載・1]はこちら

「バウハウスの誕生 ー 1919年 ヴァイマール」


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バウハウスの展開 ー ヴァイマールからデッサウへ


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