essay「バウハウスの展開 ー ヴァイマールからデッサウへ」

2020年5月号 第69巻 第2号

発行:大修館書店


執筆  深川雅文


「バウハウスの展開 ー ヴァイマールからデッサウへ」


 開校以来の成果を公表するために1923年に開催されたバウハウス展の開幕に催されたイベントの中で校長のグロピウスは「芸術と技術 新た な統一」というタイトルで講演を行った。「すべての造形活動の最終目標は建築である」という命題に加えて、さらなる「統一」のヴィジョンを鮮明に打ち出したこの命題はバウハウスが進むべき新たな方向性を指し示した。バウハウスは、科学研究の成果を受けて機械技術や新素材開発が進展する工業化社会、そして工業製品が生活に浸透してゆく社会的現実を真摯に受け止め、造形活動をテクノロジーとの積極的な結びつきの下に追求していく方向に大きく舵を取ったのである。それに伴い、バウハウスの工房は、学校としてのバ ウハウスの教育実践の場であるとともに、モダンな社会にふさわしいデザインを産み出す実験場としての色彩が強 くなった。その結果、 例えば、マルセル・ブロイヤーの鋼管椅子やマリアンネ・ブラントのティーポット、灰皿、デスクランプのようにバ ウハウス発のモダンデザインを象徴する画期的なプロダクトや建築が生まれた。ヴァイマールから工業都市デッサウへと拠点を移すとともにその方向性はより明確になった(図1)。


 モダンデザインの震源地としてのバウハウスを世界中に強烈に印象づけたのは、ヴァル ター・グロピウスによるバウハウ ス・デッサウ校舎(1925-26)である(図2)。このバウハウスの新たな学舎は、自らの記念碑的建造物となった。

 デッサウに移転するにあたり、デッサウ市は新たな校舎の建築を承認した。斬新な設計に当時の先端の建築工学技術を採り入れた建築は、1925年の9月には着工が始まり、1926年の12月に国内外から多数のゲストを招いて盛大な落成式が催されている。工房棟、アトリエ棟など機能ごとに明確に分けられたフラットルーフの多層階の建物が、通路によって有機的に結び付けられて全体を成している。 建物全体の構造は非対称形で、伝統的な西欧建築に見られる玄関部分を中心にした左右対称の均整の美学とは袂を分かっている。この建物の最大の見せ場は、鉄製のサッシと膨 大な数のガラス窓による「ガラスのカーテンウォール」と形容された工房棟の側面である(図3)。建物を支えている柱は、ガラス面の内側に隠されていて見えない。何かに支えられているというより、浮遊しているような感覚を与える建物である。モダニズムの建築運動「新建築」の象徴の1つというべ き建築で、世界中から見学者が訪れた。建築の下での諸芸術の統合というバウハウス設立宣言の理念を自ら体現した学舎でもあった。

 グロピウスは、マイスターハウス(教員用住宅)の設計も手がけ、校舎から少し離れた場所に四棟の住宅が建設された(図4)。室内にはバウハウス各工房でデザインされた家具調度が設えてありモダンな生活空間の理想的な姿を提示している。彼は、さらにテルテン地区の労働者向けの住宅団地や消費組合の建物の設計なども手がけている。これらを含むバウハウス関連の建造物群は、1996年に世界文化遺産に登録され、今日、世界中から多くの人々が訪れている。

 デッサウに移転した1925年、バウハウスが生んだ多数の優れたデザイ ンの中でも特筆すべきプロダクトが姿を現す。同校に学び家具工房で頭角 を現したマルセル・ブロイヤーが設計した鋼管椅子である。鋼管を用いた 椅子は、今日、私たちの身の回りに数多く存在しているが、原点となったのは、ブロイヤーによる鋼管椅子《クラ ブ・アームチェア B3 (ヴァシリー)》である(図5)。

 椅子といえば、長い間、木材が素材の主役だった。ブロイヤーはその構 造に工業製品である金属鋼管を用いて素材の革命を引き起こしたのであ る。自転車に乗っていて、そのフレー ムを形づくる鋼管を見て、これを椅子の構造体に使えるのではないかと思ったのがそのきっかけだった。鋼管 家具の歴史がここから始まる。人間の座るという行為に必要な構造を分析した結果、必要な機能が金属で実現できるのであれば採用するという発想の転換から生まれた変革である。

 家具の歴史に革命をもたらしたこの椅子は、バウハウスのマイスターで もあった画家、ヴァシリー・カンディン スキーの名をとって「ヴァシリーチェ ア」とも呼ばれる。その由来は、それを見たカンディンスキーが絶賛したことに喜び、彼の名を付けたことに遡る。

この椅子は、現在も作り続けら れている。

 「デッサウ期は、基礎教育と工房教育で様々な実験的な試みが行われ特筆すべき成果がいくつも姿を現した。家具工房でのブロイヤーの鋼管椅子の誕生はその象徴である。金属工房では、 工業生産を前提とした卓上ラン プなどのデザインが、また、壁画工房からは建築内装の壁面に用いられるバウハウス壁紙が生まれた。印刷・広告工房ではグラフィックデザインの実験が行われ、 その領域は展示空間のデザインにまで及んだ。出版活動も始ま り、バウハウス叢書が1925年から発行される (図6)。

 設立当初から「建築」を活動の核心に見据えてきたバウハウスだが、 ヴァイマール期には建築専門のセクションは学校組織に正式には位置付けられていなかった。デッサウに移転後、1927年に建築科が設立され、そ の指導者としてスイス人の建築科、ハンネス・マイヤーが招聘されて教育にあたった。1928年、グロピウスが学校を去った後、2代目の校長にマイ ヤーが就任。マイヤーはグロピウスの理念を継承しながらバウハウスのさらなる発展に尽力した。建築科の教授体制と教科内容を拡充し、ベルリン近郊ベルナウの全ドイツ労働組合連盟の学校の建築プロジェクトに携わるなどバウハウスが設立時から目指した建築の活動を強化した。また広告デ ザインにおける写真の重要性が増す中で、写真家、ヴァルター・ペーター ハンスを招いて1929年に写真科を設置するなど教育体制を充実させた。 工房での生産活動も軌道に乗り、産業界との連携も順調に進み、バウハウスの歴史の中で最も安定した盛期を迎えた。

 1929年、ニューヨークの株大暴落を引き金に世界恐慌が起きる。それ は、ドイツ社会にも暗い影を投げかけた。翌1930年、マイヤーは政治的偏 向を理由に突如、校長を解任され、後任に建築家ミース・ファン・デル・ ローエが着任し、社会的混乱の中で バウハウスの難しい舵取りを任されることになった。



※図版については、掲載紙をご覧ください。

図1 ヨースト・シュミット《デッサウ市の案内パンフレット(裏表紙)》1930年 ミサワホーム株式会社蔵


図2 バウハウス・デッサウ校舎(設計:ヴァルター・グロピウス、1925年-26年、photo:Eiji Ina)


図3 バウハウス・デッサウ校舎(設計:ヴァルター・グロピウス、1925年-26年、photo:Eiji Ina)


図4 マイスターハウス(マイスター、ゲオルク・ムッヘ、オスカーシュレンマーの二世帯住宅)(設計:ヴァルター・グロピウス、1925年-26年、photo:Masafumi Fukagawa)


図5 バウハウス・デッサウ校舎内に設置されたクラブ・アームチェア B3 (設計:マルセル・ブロイヤー、1925年、photo:Eiji Ina)


図6 バウハウス叢書(2)パウル・クレー著(利光功 訳)『教育スケッチブック』1925年[初版]/2019年[邦訳新装版](中央公論美術出版社)

(ふかがわ まさふみ キュレーター / クリティック)



「英語教育」

2020年5月号 第69巻 第2号 https://www.taishukan.co.jp/book/b506725.html

発行:大修館書店

発行日:2020年4月14日

バウハウス開校100年 モダンデザインの源流 バウハウスとはなにか

[新連載・2]

バウハウスの展開 ー ヴァイマールからデッサウへ


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「バウハウスの誕生 ー 1919年 ヴァイマール」


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