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essay 「コミュニケーションをアートにした男」 折元立身論


2016年4月1日


コミュニケーションをアートにした男


2001年、折元立身は、21世紀最初の回となった、ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展(第49回)のメインの企画展「人類のプラトー」に日本人作家としてただ一人選ばれて参加した。これは、同回のディレクターを務めた国際的キュレーター、ハラルド・ゼーマンによって企画された展覧会で、彼の慧眼で選び抜かれたアーティストたちの競演を通して、新世紀における人間のあり方を問いかけ、炙り出すというコンセプトが根底に響いていた。この展覧会で、折元は、アルツハイマー症を患った自らの母、男代のために手製の巨大な紙の靴を履かせて路上に立たせ、その誇らしい姿を撮影した「スモール・ママ+ビッグ・シューズ」や“パン人間”たる息子がアルツハイマー症の母とコラボした「パン人間の息子+アルツハイマー・ママ」などの「アート・ママ」の作品が展示され、会期中に大きな反響を呼び、折元立身の名前を一気に世界に知らしめることになった。その後、さらに、折元は、母を巻き込んで「アート・ママ」のシリーズを展開させる一方で、長崎の二十六聖人の殉教にちなんだ26人のパフォーマーによる「処刑」などの集団パフォーマンス、アートとケアを結びつけた病院施設でのパフォーマンス、さらに動物とのコミュニケーションを試みる「アニマル・アート」の追求、そして夥しい数のドローイングの制作など、自らの芸術世界を大きく拡張してきた。

21世紀に入ってからのこうした豊かな作品展開の原点となった重要な作品がある。「パン人間」である。「アート・ママ」に先立つ1990年代の折元のこの代表作は、その後の折元のライブアートの原点となったといっても過言ではない。初めにパンがあった。パン人間はいつ、どのようにして生まれたのだろうか?

その登場は、1990年秋のドイツに遡る。ベルリンの壁崩壊の衝撃からそろそろ一年になろうとしていた。そぼ降る雨のなか、天高く聳え立つケルンの大聖堂横の広場の一角に、顔の横側にパンを一個付けたパン人間が現れた。その頃、折元は、物を顔に付けるというパフォーマンスのアイデアを実践していた。例えば、時計を顔につけた「クロックマン」、魚の大きな頭を付けた「サカナ人間」等も試みていた。さまざまな実験的な試みの中から、「パン」が主題として選ばれたのは、以前から抱いていた「パン」への特別な思いからであった。若い頃、パンのある光景を油彩で描いたことがあった。ラ・トゥールによるパンとワインの静物画は、折元のお気に入りだった。決定的だったのは、友人から聖書の一節「パンは肉であり、ワインは血である」を聞かされ、「パンは肉であるのなら、顔につけていいかもしれない」と思ったことだった。キリスト教と西欧の食文化の象徴である「パン」は、折元にとって、子どもの頃から憧れであるとともに、西欧に対して日本人としての複雑な感情を引き寄せる食べ物でもあった。折元は語っている。「パン人間は、やはり、アジア的です。それは、ヨーロッパに向けての挑戦なのです。」

1991年のサンパウロ・ビエンナーレで折元は初めて多数のパンを上半身に付けて街中を歩いた。人々の反応に確信を得た折元は、1992年秋、再び、ケルンに赴き、複数のパンで顔を覆った姿で支線の駅に現れた。駅構内や電車の中で居合わせた人々のパン人間に対するリアクションの面白さを実感し、パン人間が、街路や駅、美術館などの公共空間に現れ、出会った人々とのふれあいを作品にするという形、すなわち、コミュニケーションをアートにするという基本的姿勢が生まれた。そこから、パン人間の永きに渡る世界旅行が始まった。ケルン、ハンブルク、ベルリンなどドイツの諸都市、ベルギーのブリュッセル、ヘント、モスクワ、さらに、ポーランド、ルーマニア、ハンガリーなど旧東欧の諸都市、ニューヨーク、ロンドン、イスタンブール、ネパール、そして日本の諸都市へと旅を続け、さまざまな出会いと実験を重ねながら作品として成長させていった。

1992年、ドイツから帰国直後、ソロでのパン人間から、集団パフォーマンスとしてのパン人間が早くも生まれる。九州の福岡市の中心街、天神に、三十人のパン人間が現れ、行進を始め道行く人々と交流した。招待作家として参加した2001年のベネチアビエンナーレでは、水上バスから12人のパン人間が降り立ち、展示場に行進した。イタリア館の前で、集団は立ち止まり、「われわれはブレッドマンである。ヒューマンビーイングではない!」と叫ぶと、居合わせた人々から拍手喝采を浴びた。2001年に横浜で始まった現代美術の祭典、第一回横浜トリエンナーレでは、100人のパン人間がみなとみらい地区を闊歩した。近年、2014年、ポルトガルのアレンテージョ・トリエンナーレで行われた「500人のおばあちゃんとの食事」といった大規模な集団パフォーマンスの原型がここにある。

パン人間が軌道に乗り始めた1990年代半ば、折元の作家生命に関わる事態が生じた。父が亡くなり、ひとり残された母の面倒を折元が引き受けることになったのである。母の体調も芳しくなく、アルツハイマーの症状も見られるようになっていた。自由に制作し世界を駆け巡ることはできなくなり途方に暮れた。だが、ある日、風呂の中でふと思いついた。お袋を作品のパートナーにし、母との介護生活そのものをアートにすればいい、生活とアートを一体化すればいい、と。ここから生まれた「アート・ママ」のシリーズは、アートとケアを結びつけた作品としても注目された。2000年代、自らの母に対して行ったアートによるケアという考えは、介護医療の現場でも知られるようになり、折元は、国内外のさまざまな医療施設で患者たちと交流するプロジェクトに積極的に関わった。たとえば、2002年には、ロンドンにある大規模な病院、チェルシー・アンド・ウエストミンスター病院からアート・プロジェクトの依頼があり、パン人間やビッグシューズを履いてのパフォーマンスを行っている。実は、医療とアートを結びつける実験は、パン人間の初期の時代にすでに行われている。1992年、アルコール中毒患者ための国の医療機関の病棟内に、折元はパン人間として現れ、患者たちや医療関係者とのコミュニケーションをアートとして実践した。

コミュニケーションをアートにするという姿勢から、折元は、ブタや鶏、アルパカ、ふくろう、あひるなどの動物とのライブ・パフォーマンスを数多く行ってきた。アニマル・アートは、2000年代になって折元の主要な作品として大きく花開いた。その出発点は、ニューヨーク滞在から帰国後の1979年に水族館で行われた「鱒と手」という水槽内の魚との手ぶりによるコミュニケーションにあった。その後、動物とのコミュニケーションは、パン人間で新たな展開を見た。1993年には、ドイツのブレーマーハーフェンで馬と二人のパン人間のパフォーマンスが行われた。そこでは酪農場を訪れて牛とのパフォーマンスも行った。さらに、1996年には、パン人間は、ドイツのクロッペンブルクで、牛が放牧されている牧場を訪れ、牛達とのパフォーマンスを行っている。動物とのパフォーマンスについて、折元はこう語っている。

「動物とコラボレーションする理由は、アートは人間の世界だけにあるのではなく、他の動物の世界にもあると思うからである。地球上でこんなに人間が多くなりすぎて、他の動物を支配してしまったが、他の動物がいなければ、人間はこんなに生きていけないのだから、もっと仲良く共存しなければ、そのうちウィルスや病原菌に攻めてこられ、人間消滅になるかもしれない。…」

1990年のパン人間の登場から18年後の2008年の冬、ドイツの小都市、ヘルフォルトにパン人間の集団が現れた。街の市場や市役所のホールを歩いた後に、同市の現代美術館、MARTAに姿を現し、展示室の中を歩き回った。折元は、同美術館の初代館長のヤン・フートの退官記念展「LOSS OF CONTROL Crossing the boundaries to art from Felicien Rops to the present」(2008年11月1日~2009年1月25日)に出品作家のひとりとして招かれ、パン人間のパフォーマンスを記念に行ったのである。フートは、ドクメンタ9の総合ディレクターを務めるなど国際的なキュレーターとして知られる、彼が、折元に、パフォーマンスに関連する作品ではなく、ドローイングの出品を依頼したことは特筆すべきであろう。折本のドローイングでは、なんらかの行為をする人間の姿が荒々しくも軽妙なタッチで描かれている。その行為の内容は、例えば、大きな茶碗に入った女性の姿や犬に噛み付く男の姿など、荒唐無稽の状況下にある人間像が少なくない。そのイメージは、暴力的かつ夢想的であり、時に性的な仄めかしも感じられる。展覧会の副題で名指しされているフェリシアン・ロップスは、19世紀のベルギーの画家でありボードレールの詩集の口絵等も手がけ、奇想に満ちた独特の画風でエロスとタナトスの世界を描くことで知られる。ロップスは、この展覧会のコンセプトの基調を担う特別な作家として位置づけられており、その流れに響き合う作品のひとつとして、折元のドローイングが選ばれ、ルイーズ・ブルジョアのドローイングと一緒に一室を設けて展示された。これは、折元のドローイングの存在を国際的に知らしめるきっかけとなった。折元は、パン人間や他のパフォーマンス作品と並行して、90年代から今日に至るまで、膨大な数のドローイングを日々描き続けてきており、映像や写真、ポスター、オブジェなど多面的に展開されてきた折元作品の中でも重要な位置を占めるに至っている。近年では、パフォーマンス作品の主要な構成要素として一緒に展示されることも多い。ドローイングの存在感が増したのも、21世紀に入ってからの折元の仕事の大きな特色である。

ところで、時を遡る1993年、折元は、ベルギーのヘントを訪れ、当時、ヘント市立現代美術館の館長を務めていたヤン・フートに、「パン人間」のプレゼンをしたことがある。この最初の出会いでは、フートは辛口の反応を示した。「パン人間」の可能性に確信を抱き始めていた折元にとって辛辣な出来事だったが、自信は失うことなく作品を大きく成長させていった。MARTAでの「パン人間」の招聘は、この作品が、時を経て、フートに正当に評価されるに至ったことを物語っていた。

パン人間は、折元のコミュニケーション・アートの中核にあるライフワークである。パンは、近年では「BIG BREAD」に見られるように「アート・ママ」等ほかの作品とも融合しながら、パンで顔を覆うパン人間の形に拘らずに、さまざまな自由な形で作品に現れ、折元の芸術に不可分の存在となっている。「パン人間」は、今も生き続けている。2015年の11月、19世紀のイギリスの画家、ターナーゆかりのイギリスの港町、マーゲートにあるターナー・コンテンポラリーで行われたアート・イベントで、折元はパン人間になって道行く人々と交流しながら歩き、途中から街をバスに乗って目的地の美術館まで移動するパフォーマンスを行った。その模様は、リアルタイムでSNS (Periscope) によりライブストリーミングされ、世界中の人々に目撃され、シェアされている。ターナーがマーゲートで描いた風景画を彷彿とさせる強風で荒波が迫る海浜を背景に、パン人間はよろよろと進んでいく。パン人間は、ネット空間を闊歩するようになった。折元は語る。「パン人間は、死ぬまでやり続けますよ」 



(ふかがわ まさふみ 川崎市市民ミュージアム学芸員〔当時〕)



「生きるアート 折元立身」展 パンフ (2016) 表紙 

 


※本テクストは、2016年4月29日から7月3日まで川崎市市民ミュージアムで開催された展覧会「生きるアート 折元立身」の同名の展覧会パンフレットにおいて作家解説文として掲載されたものである。


展覧会名 「生きるアート 折元立身」展 

会期 2016年4月29日~7月3日 

会場 川崎市市民ミュージアム

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