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essay「アウェー : 安西剛 展」安西剛 論


2019年2月15日


執筆  深川雅文


「アウェー: 安西剛」展 トーク ( 2019年2月9日 ) 備忘録 


  2019年2月9日に工房親で開催した安西剛とのトークショーは、本展のキュレーターである筆者にとっても、作家活動を本格化した2013年からほぼ6年間の短い年月の中で、一貫して多様な作品を展開してきた安西の仕事を全体として考える好機となり、重要な気づきのある興味深いものとなった。それらのいくつかを、備忘録として記しておきたい。


1. 原点 「剃毛思想プロジェクト」2005


剃毛思想プロジェクト ( 2005 )

  安西の作品の出発点となった「剃毛思想プロジェクト」( 2005 ) は、最初の作品であるがゆえに作家の発想の原点を鮮明に示している。人が入ることができるサイズの箱型の展示台上面に、50センチくらいの穴が穿たれ、そこから人間の頭部が突き出している。来場者は、その頭髪を安全カミソリで剃ることができる。箱と穴、そして頭部のみで構成されたシンプルな作品である。穴から出ている頭部を見るだけでは、その中に何が潜んでいるのかもわからない。毛髪が植えられたオブジェが置かれているという見え方もするので、実際に実物に触れ、作家の指示に従って剃毛という行為でその物に関わる瞬間、それが頭髪のオブジェではなく生身の人間の頭であることに気づき、箱の中に何物かが潜んでいることを察して、驚いて尻込みする人もいた。

  この箱は、剃毛者に箱の中の存在に気づかせる装置であり、その未知の存在と鑑賞者を媒介するメディアに他ならない。この箱=カメラ (ラテン語で「箱」)は、まさに、ブラック・ボックス ( カメラ・オブスクラ=暗い箱 )であり、レンズは取り付けられておらず光学的な装置としては使われていないが、この装置によって隠されたものが披瀝され、体験者はその突然の現れに驚き、楽しみ、感じるという体験は、光学的装置としてのカメラ・オブスクラに通暁するものである。

  装置により人々を巻き込み、その人々との視覚的ないし身体的なコミュニケーションを作品体験の核心とするという安西作品の萌芽が強く現れているのは特筆すべきであろう。安西は、最初の作品なので右も左も分からず無我夢中で文字通り「体を張って」行ったと語っている。その後の安西作品に通奏低音のように流れている緊張感とそこからの解放感の往来がここにも感じられる。


2.  キネティック・”プラスチック”・スカルプチャー 2006-2014


 プラスチック素材で作られた身近な日用品を造形の材料として、モータードライブで動く彫刻にするという、安西流のキネティック・スカルプチャーの発想も、学生時代の2006年にすでに生まれている( une-une -kun )。


une-une-kun ( 2006 )

その後、ヴァリエーションを増やし、それらが設置されて動きを見せる空間インスタレーションに成長していった。( Stop MAKE-ing Machine )


Stop MAKE-ing Machine ( 2010-11 )

  これらの装置は、機械仕掛けでありながら、元来機械装置に求められる定かな目的の実現のための定常的な運動を見せることはない。安西が生み出す無目的で無意味なマシンたちは、日常性を逸脱した不可思議で時に可笑しみのある動きを見せる。機械的な動きから逸脱し、何か生物的なアニマすら感じさせる瞬間、見る者は新鮮な驚きを覚える。20世紀の美術の歴史を振り返ると、未来派は、機械(マシン)の美を賞揚し、テクノロジーを芸術の世界に招き入れた。その後、構成主義やバウハウスの運動の中で、アートとテクノロジーの可能性が追求されていった。

   安西の作品は、遥か昔のこうした動向にもリンクしているが、そのテイストは全くと言っていいほど異なる。過去のモダニズムは、機械と言うと、金属やコンクリートといった堅固な素材と不可欠であったが、安西のマシンはプラスチックというフニャフニャとした素材から成り、硬質では無く軟質である。逆に、安西は、プラスチックの可塑性を、自らの作品の武器として、不思議な装置作りに邁進する。運動する機械的彫刻作品と言うと、例えば、スイスの作家、ジャン・ティンゲリーの作品を思い出す人もいるだろう。しかし、ティンゲリーのキネティック・スカルプチャーは金属の装置であり、モダニズムの残滓を感じさせる点で、安西のマシンとは異なる。

  安西は、日用品と言う誰にも身近な材料を利用して、さらに一歩進み、キネティック・スカルプチャーの制作を自らが作家として制作する作品に留めず、自らを指示書を与える人間の位置に置いて、ワークショップで一般の参加者がその指示によって自由に制作して造形のフィールドを切り開くような場所を許容した。( Encounter with Doppelgaenger 2014 )


Encounter with Doppelgaenger ( 2014 )

ワークショップから生まれたスカルプチャーは、いわば、自らの作品の影武者 ( Doppelgaenger ) である。外部者を巻き込むことで、モダニズムが引きずっていた唯一無二の作家性と言う堅固な砦を軽やかに爆破し、作品の主体のゆらぎの場の創出そのものを作品化しているのである。

 指示書による創作というやり方は、メディアアートのパイオニアでもあるラースロー・モホイ=ナジのある作品を思い起こさせる。「電話絵画」(1923年)と名付けられた作品は、電話という通信メディアを介して、色彩や形の対応表を用いて、遠隔地にいる制作の技師に作家が指示を行い、作家の手業を排して絵画を制作するというものであった。この指示は厳格なもので、その点において、安西の指示書のアートとは大きく異なる。安西の指示書は、いわばソフトウエアとしての指示書であり、そのアプリケーションは指示された者の創意や想像を排することなく、他者の自由意志に委ねられる。どのようなスカルプチャーが生まれるのかについては、指示者の安西にも予見できない。とはいえ、ソフトウエアの創出者として、安西はその表現の場を緩く抱え込んでいるのだ。


3. ノイズ・スカルプチャーとしての音の位相


  安西剛は、東京藝術大学の音楽学部を卒業しているが、音楽家として活動することはなかった。にも関わらず、その作品には、音の要素が不可欠である。安西のキネティック・スカルプチャーは、動き始めると様々な音を発し始める。多数のキネティック・スカルプチャーが置かれた空間からは、喧騒というべき音の風景が生まれる。その様子を見ていると、未来派の芸術家、ルイジ・ルッソロの騒音音楽装置「イントナルモーリ」(1913年)を思い出した。街を自動車が走り、空を飛行機が飛ぶ、群衆が闊歩する、20世紀初頭の喧騒な都市のダイナミズムを、音という側面から表現した作品である。

  とはいえ、安西の作品では、未来派の作品に満ちた機械の美への賞賛は皆無である。むしろ、機械的な文化を遥か過去のものとした浮遊感に満ちている。キネティック・スカルプチャーがそれぞれの構造上、発する固有の音をそのまま発生させているが、そのノイズは、「イントナルモーリ」の騒音より、むしろ、マルセル・デュシャンの最初のレディー・メイド作品「自転車の車輪」(1913)の車輪を実際に回した時に生じるチャリチャリという擦過音に近いのかもしれない。

「アウェー」展の会場では、定められたインターバルの後に、キネティック・スカルプチャーたちは、動き出し、ランダムに固有の音を発生する。彼らが発する音は、観客たちに向けての訳の分からない呼びかけであり叫びである。その音は、その意味でも、キネティック・スカルプチャーにアニマ的な存在感を帯びさせている。


4. キネティック・スカルプチャー × カメラ・オブスクラ


distance ( 2016-18 )

  安西が、2016年に始めた「distance」のシリーズは、キネティック・スカルプチャーをもう一つ別の装置「カメラ・オブスクラ」に接合した作品である。カメラ・オブスクラの装置を介して、キネティック・スカルプチャーの動きがアニメーションの映像としてスクリーンに投影される。最初の「distance」は、外界をカメラ・オブスクラを通してスクリーンに映し出すという機能を、いわば、「反転」させ、カメラ・オブスクラの箱の中にキネティック・スカルプチャーを閉じ込めて、その映像をカメラ・オブスクラのレンズを通して外にプロジェクションさせている。

 この発想は、備忘録の冒頭に触れた「剃毛思想プロジェクト」( 2005 ) の箱に穴を開けて出された頭の存在と重なり合っている。映し出されたモノを、私たちは見ているが、それが一体何なのかはブラックボックスに入ったままである。映像が世界を私たちに近づけるという神話は、今もしたたかに生き続けているが、それを鵜呑みにすることはできない。

  カメラ・オブスクラとそこから生まれた「写真」というメディアは、映像による世界理解を強力に推し進めてきた。しかし、映し出された映像や画像は、必ずしも真の世界を映し出すものではない。20世紀フォトジャーナリズムの「決定的瞬間」を捉えたとされた、ロバート・キャパの写真「倒れる兵士」は、戦後の調査で「倒れたが、死んでなかった」ということが判明している。9.11でリアルタイムにテレビで目の当たりにしたジェット旅客機のビルへの突入映像は、それが何を意味するのかについては私たちを暗闇の洞窟に閉じ込るばかりだ。プラトンの洞窟は、21世紀に入っても、そこかしこに偏在している。あなたが今、手にしている、そのスマートフォンにも。

  今回の安西の展示は、追いかけても追いかけても掴まらずに、手からこぼれ落ちていく世界の残像の装置の隠喩でもあるのだ。スマートフォン、監視カメラ、ドローンカメラ、IoTのカメラ…世界を覆い尽くすカメラの眼は、今や、世界の総人口の数より多いのかもしれない。それらの全てにカメラ・オブスクラの構造が仕組まれている。映像メディアの原点、カメラ・オブスクラの存在に、私たちは日常的にはほとんど気づいていない。無意識に浸透されたカメラ・オブスクラが私たちの世界に偏在していることを、私たちは少し意識すべきかもしれない。そこから生まれ、社会に流通する画像・映像が、今後、AIなどのハイテクノロジーによって、高度にコントロールされようとしている (いや、すでにコントロールされている) のであれば、尚更のことである。

キネティック・スカルプチャーが何なのかという存在論的な問いが、カメラ・オブスクラという装置に掛け合わされることで、世界のメディア論的な問いへと拡張している。ここに、安西の作品の新たな問いかけの地平を見ることができるのではないか。


(ふかがわ まさふみ キュレーター / クリティック)


【展覧会情報】

展覧会名: 「アウェー : 安西剛 展」 (第11回恵比寿映像祭 地域連携プログラム)

会期: 2019年2月3日(日)- 2月28日(木)


●Gallery 工房親 CHIKA

〒150-0013 東京都渋谷区恵比寿 2-21-3

tel. 03-3449-9271


安西剛 website http://an2ai.net

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