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essay「《見ること》の創造へ」城田圭介論

2008年9月


執筆  深川雅文


初出:Keisuke Shirota,Galerie Stefan Röpke,Köln.


 「イメージの目的は、その意味をわれわれによりよく理解させることではなくて、対象の独特の知覚を創造すること、つまり、対象を《知ること》ではなくして《見ること》[vision]を創造することなのである。」(Victor Shklovsky『Art as Device』より)

 城田の代表作となった「A Sense of Distance」のシリーズでは、作家は、現実の断片を撮影した一枚の写真から、彼にしか実現することのできない独自の《見ること》をキャンバス上に創造する。たとえば、皇居前の松の植え込みの一部を撮った何気ない一枚のカラー写真がある。城田は、それを112cm×194cm大のキャンバスの中央付近に貼り、そこを起点にキャンバス全体に現実にはありえない広がりをもって連なる松原の空間のイメージを生み出した(A Sense of Distance #1 P.010-011)。その光景は、写真の延長にも見えるが、すべてアクリル絵の具で描かれたものであり、想像力が紡いだイメージの世界である。あるいは、高速道路を運転しながら作家が撮影した一枚のカラー写真から、仮想の巨大インターチェンジの光景が広がるといった具合に (A Sense of Distance #2 P.013)。そこにはどのような《見ること》[vision]が生まれているのか?

 写真は城田のイメージ制作の出発点として重要である。ただし、彼が撮影し選ぶ写真は、伝統的な写真美学からは逸脱したものばかりだ。作家は、慎重かつ大胆に、普段だったら脚光をあびるにちがいない、美学的に完成度の高いイメージをすべてゴミ箱に捨て去る。そして、逆に、普通だったら捨てられてしまうようなピントも露出もいい加減な 未完成のショットを選ぶ。そして筆を取り、想像力を膨らませながら未完成から完成へと向かう。

 なぜ失敗した写真を選ぶのか?

 城田は語る。

 「僕がもともと関心があったのは、見えているものというよりは、どちらかといえば、見えていないものであり、記憶 に関しても、覚えているものというよりは、記憶からこぼれ落ちているもの、そういうものに関心がありました。なぜかというと、普段生きていて、そういう記憶に残らないようなものとか、実際見ていたんだけれどもほとんど視界にも入って いなかったようなものとか、そうしたイメージが実は圧倒的に多くて、そういうイメージに支配されている中で生きているんじゃないかなと思ったのです。ある時、自分が昔撮ったスナップ写真を見返しているうちに、いわゆる失敗してしまったような写真、ピントが合っていなかったりとか、何の記念にも資料にもなっていない写真とか、露出も適正ではない、 いわゆる失敗写真がすごく多いことに気がつきました。その失敗した写真が記録にも記憶にも残らないようなイメージに似ている気がして、妙にリアリティを感じました。今はデジカメが普及しましたが、デジカメで言うと、撮って、あ、 これ失敗したなと消去してしまうようなコマがありますよね。その消去してしまうコマに、似ているかなと思ったんです。」

 私たちが生きている日常では、明確に残る記憶よりも、忘れ去られていく記憶が大半を占める。20世紀末に始まったデジタル・ネットワークのビッグバンを経て21世紀に入り、その度合いはますます高まっているように思われる。 私たち現代人は、グローバル・ネットワーク化した膨大な情報の海に生きつつも、同時に、忘却の滝を目前にして茫然とその淵にたたずんでいるように思われる。日常の記憶の多くは、その海の中心に渦巻くネットのブラックホールの 中に常に吸い込まれ、消去され続けている。まるでゴミのように。無的なイメージを起点に仮想の光景を新たに立ち上げる城田の創造行為は、そうした流れに逆行する。それは、捨て去られる記憶に対するひとつのオマージュであり、 なおかつ、圧倒的な忘却という私たちの今日の生のリアリティへの美学的な目配せでもある。

 20世紀前半、モダニズム芸術の革新の中で、日常に潜む無意識を巡る芸術が生まれた。シュルレアリスムである。シュルレアリストの中には、たとえば、マン・レイのように、写真というメディアをたんなる現実の記録装置としてでは なく、現実の根底に隠された無意識を掬い取る装置として用いる作家が出てきた。ベンヤミンは、意識に浸透された空間のかわりに「無意識に浸透された空間」を暴露するメディアとしてシュルレアリスムの写真の前衛を擁護した。無意識的な記憶に関わる城田の仕事は、マクロ的に見るとこうした美術史の水脈に連なっている。ただし、城田と私たちの生きている時代は、その忘却のスピードと量において20世紀のモダニストたちが生きていた時代とは決定的に異なっている。こうした社会的なリアリティは、「記憶」を巡るこの若き作家のオブセッションとなり、創造を加速し、わずか 数年にして膨大な作品を生み出す背景となっているように思われる。

 特筆すべきは、城田は、自らの制作の完成に充足するタイプの作家ではないということだ。未完の写真の断片を絵筆の力でイメージの完成型へと導き、一旦、傑作を創り出しながらも、その作品自身が傑作として確たる記憶の縁となることを否定するかのように、自分自身の作品を再解釈し、新たな創造へと走り出している。2006年に発表された、「Another Day」はその証拠である。そこでは、使われる写真の数が一枚から二枚に増やされた。これは何を意味 するのだろうか?

  城田は語る。

 「意識は、普段、どこか1点に集中していることがいつもあるわけではなくて、どこかにいてもふと違う場所を思い浮かべたりとか、人と話していても頭の中では全然違うことを考えていたりとか、それもひどく無根拠であったりとか、 唐突であったりとかして、そういうイメージを何とか再生できないかなと思っていました。そうした時に画面一つに写真 1枚でなくてもいいと思ったんです。」

 最近の城田は、かつての作品とそこに使われた写真の間を往還しながら自身の《見ること》を相対化し、多角的に プレイする方法を探求している。たとえば、一枚の写真では消失点がひとつだったのに対して、写真を二枚用いた作品ではそれぞれの消失点が画面の中で統合されることもなく、いわば微妙な緊張を保ちなから暗闇のなかに曖昧のままに投げ出されている(Another Day #1 P.036-037)。また、一度用いた写真を別の写真と組み合わせて制作するといったふうに、絵筆で写真に再解釈を施している。さらに、最近では旧作の写真を元にしたキャンバスを別の写真を元にしたキャンバスと合体させた作品も発表している。こうした複雑な作業は、記憶のあり方の本質とも密接に関わっている。というのは、記憶に完成型はなく、それは常に完成の状態から逸脱していくからである。であるから、作家は、記憶のイメージを固定化するのではなく、記憶を巡る自らの《見ること》にもメスを入れ、揺さぶりをかけることで、自作を脱構築し表現の新たな地平を切り開こうとしている。そうした創作行為の総体がこの本で初めてまとめられて世に問われる。つまり、城田が行ってきた《見ること》の創造がここに結晶しているのだ。


(ふかがわ まさふみ 川崎市市民ミュージアム学芸員〔当時〕)


初出:Keisuke Shirota,Galerie Stefan Röpke,Köln.


城田 圭介

Shirota Keisuke


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