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粟津潔の「写真」の位相

2009年1月24日


執筆  深川雅文


 粟津潔の多彩な仕事のなかで「写真」はどのような位置にあるのか? 粟津の仕事を集成した、『粟津 潔・作品集』(全三巻 1978~1979 講談社刊)にはポスター、イラストレーション、さまざまな種類のデザイン、絵画などの項目が並び、作家の旺盛な仕事がまとめられているが「写真」は出てこない。

 他方、粟津は「写真」について、総合的な造形活動のひとつとして明確に触れており、作品集に漏れているということは作品としての「写真」の存在とは無関係であるように思われる。


「デザインすること。イラストレーションすること。映画を作ること。舞台、映画美術の仕事をすること。写真を撮ること。建築に関わる仕事。ディスプレイや壁画をつくること。一冊の本の装幀をすること。文章を書くこと。これらすべては、私の仕事である。表現の方法とメディアは異なっていとも、どこかで共通している。私は、あえて多様に広がりをもった仕事をしてきた。…」(1)(『造形思考ノート』[1975 刊]あとがき p.157)


 1970年に刊行された『粟津潔デザイン図絵』(田畑書店刊)は、粟津の写真が明瞭に掲載された書である。カメラを携えて、昭和37年(1962年)の春に青森の津軽半島と秋田を旅して土地の人々や路上の風景、風物を撮影している。粟津33歳のときのことである。粟津が撮った写真は、作家と場所との濃密な関わりの様相が強めのコントラストの画像のなかに塗り込められており、たんなる記録写真の領域に留まってはいない。


「…そのころ地方の人間生活のフォト・ドキュメントをしようと思っていたので、とにかく本州の最北の青森へ行き、津軽半島の一番来たの部分、「竜飛崎」まで行った。三月始めの津軽の空は、くろずんでいて、いかにも北国の色でおおわれ自然や人間の生活に、近代はなかった。だがいかにも何かが、強靭で明るかった」(2)(p.23)


 粟津のこの言葉には、近代化が急速に進む日本で、都市で活動する芸術家がカメラを手に地方に向かい、日本人の生活や文化の原型を探し求めるという姿が見えてくる。たとえば、50年代に日本の地方を旅して写真を撮った、川崎生まれの芸術家、岡本太郎のように。

 ところで、近年、粟津潔の写真について、特筆すべき展開があった。2008年春、金沢21世紀美術館で開催された粟津潔展で、250点を超える粟津潔の一群の写真が展示されたのである。個々の写真のキャプションはなく、格子状に同サイズのモノクロプリントが展示された。具に見ると、冒頭に触れた津軽と秋田の写真であると確認しうるものとその周辺の写真と思しきものもある。その他、他の著作や出版で散見される粟津の手になると思われる写真がいくつか見いだされる。しかし、出版物等に掲載された写真の数自身は限られたものであるので、その個々の写真についての手がかりは依然少ないが、あえて分析を試みてみたい。

 この写真群は、一体、何のためにプリントされたのか? 詳細は現時点では不明であるが、ひとつ重要な事実があった。この一群の写真のなかで(現時点で筆者が見た限りにおいてだが)二点に関しては、粟津潔の欧文のサインが写真の画面の外、マットの内側に記してあったのだ。つまり、この二点の写真は作品として認知されたと考えられる。いずれも、草むらを撮影した写真である。草と草が地面を這って絡み合いながら不定形なテクスチャーを形作っている状況の中に光が差し込んでいるという図である(展覧会カタログ掲載図版No.307,308)。同一のイメージではないが、粟津潔の『造形思考ノート』の一番最後の図版は「草むら」の作品である。(3)『造形思考ノート』に掲載された写真のクレジットは、「写真=山崎博・渋川育由・粟津潔」とあるだけで、誰がどの写真を撮ったかについては明記されていないが、粟津がサインした同質の草むらの写真の存在からして、その写真が粟津の手になることは確実である。

 これまで作成された粟津のバイオグラフィーには、写真作品についての記述は皆無である。だが、筆者が調べた限りでは、過去に粟津が写真の展覧会を行った痕跡がある。自らが創立に関わった、東京デザイナーズ・スペース(1976年に設立)で粟津は写真展を開催している(写真家の山崎博が制作・企画に関わった)〔注記: 東京デザイナーズ・スペースでの粟津の写真展については、開催時期などの詳細は、この時点での筆者の調査(2008年)では確認できなかったが、金沢21世紀美術館の学芸員、高橋律子氏のその後の調査 (2018年)によって詳細が確認された。展覧会名「海と毛布 - 粟津潔写真展」(会期:1979年3月19日~24日 会場: 東京デザイナースペース)〕。(4)写真展での発表、『造形思考ノート』(河出書房新社、1975年刊)の「あとがき」における粟津自身の「写真」への言及も合わせると、1970年代の半ば頃に、粟津には作家のなかで作品としての「写真」への明確な意識が生まれていたようである。

 というのは、『造形思考ノート』に掲載された写真には、初期のドキュメンタリー的写真とは明らかに異なる実験的な写真も含まれるからである。例えば、「形あるものが崩れ、壊れる時、言葉にならない何か得体のしれないものがある」という文章で始まる「静物」という文章に添えて掲載された12点組の写真がある(同署、65頁)。印刷の活字をストーブの上に乗せて崩れ行く様子を連続して撮影した演出的な写真である(川崎・生田のアトリエにて撮影)。また、「解体」という文章に付けられた写真は、コンクリートの地面を背景に曲がりくねった鉄筋が置かれている写真である(同書、139頁)。これは、アトリエ(1972年建設)を構えた川崎・生田の近郊で撮られた。粟津が道すがらたまたま発見したその鉄筋は、それ自身の意味を超え、何かオブジェ的で超現実主義的な作品と化している。1970年代は、ヨーロッパで「コンセプチュアルアート」が隆盛隣、その運動のなかで「写真」も芸術として新たな展開を見出すのだが(たとえば、ドイツ人のベッヒャー夫妻の作品)、粟津のこうした写真は、そうした現代美術の動向にも共鳴する部分を持っていた。『造形思考ノート』の制作に関わった渋川育由によると、粟津潔は当時、開発が進む川崎・生田の造成地とその周辺を、一緒にドライブしながら、奇妙な光景を見つけては途中で降り歩いて撮影していたという。前述した「草むら」の写真も、生田周辺で撮られている。

 粟津は、1977年にはスペインに赴き、ガウディへの傾倒を深め、スペイン帰国後は、「描く」事に再び覚醒してドローイングなどの新たな創作の道に歩みを進めて行く。60年代に粟津が撮ったフォト・ドキュメントとは一線を画する写真への関心と実践は、生田アトリエーの移転後から『造形思考ノート』が出版された1975年前後までをピークにして70年代末での写真展で一段落したと見ることができるかもしれない。

 粟津は膨大な量の文章を執筆しているが、自らの写真について語った部分は数少ない。他方、「写真」全般については、彼が、状況認識のための概念として提示した「グラフィズム」との関連で重要な言及を行っており、彼の写真作品を理解するうえで手がかりになるだろう。

 「グラフィズム」とは、高度成長を経た戦後日本社会における複製化が高度に浸透した状況を指す言葉であった。(粟津のなかで、それに対する行動の指針となった合い言葉が「複複製に進路をとれ!」であった)(5)複製が社会を覆い尽くしホンモノと複製の二元的な区別が意味を失った状態である。(6) 粟津にとって、写真は無論、撮影者と被写体という単純な二元論的な把握では捉えられなくなっていた。


「Photographyを写真と訳したのは、大いなる誤りであるのだが、それは真実を写すという意に解されているからだ。写真というメカニズムは、世界の表層を、もう一つの表層、皮膜に移し変える作業であるから、写真は、「皮剥ぎ」と訳すべきであり、写真家は「皮剥師」であろう。」(7)


 写真は、世界のあらゆるものを剥ぎ取り、提示するがそれは表層にすぎない。存在するもの、描かれたもの、デザインされたもの、すべてが表層として等価に存在する。写真はそれらすべてを剥ぎ取る複写装置であり、グラフィズムを増幅させるメディアに姿を転じる。オリジナルと複製の関係が大量の複製または複製の複製によって霧散し、複製そのものが人間の環境を現実として埋め尽くす。「虚実皮膜」の世界が広がっているのだ。

 同時代の写真の世界に目を移すと、粟津の描く「グラフィズム」的状況に呼応するかのような動きが沸き起こりつつあった。その先端を切った写真家のひとりに森山大道がいる。1969年に『アサヒカメラ』に連載されたシリーズ「アクシデント」の第一回目「ある七日間の映像」で、森山は、テレビ、電送写真、新聞など身の回りの画像の複写を中心に構成し、第六回目の「事故・警視庁ポスターより」は悲惨な衝突事故のポスターをクローズアップして複写した写真だけで構成されている。森山にとってカメラは「現実の複写機」であった。「ぼくにとっては、現実もポスターも、外界のモノとして存在しているわけで、等価なものです」(8)(森山大道)また荒木経惟は、71年に写真の複写性を喧伝するグループ「複写集団ゲリバラ5」を結成した。 

 こうした写真家たちの仕事が、粟津の目にどう映ったのかを窺い知る資料は手元にないが、グラフィズムという状況に同調し、「複複製に進路を取れ!」というモットーを掲げた共同戦線の最前線に立つ仕事であったと言えよう。

 この時期の写真が到達した新たな位相を、評論家の多木浩二は「仮象性」という言葉で分析している。


「写真はすでに現実の模写ではなく、現実から断絶したいわば非現実であることも明らかである。それは仮象であり、人間の意識のうちにその実在性をもつものである」(9)


 粟津にとっても、写真はすでに現実の皮膜であり、写しではなく仮象であった。しかし、いや、であるがゆえに作者の「見る」というまなざしの次元が写真をとおして浮上する。70年代の生田での写真の試みはそうした新たな写真のあり方に重なっている。

 写真は「剥ぎ取られた皮膜」になった。ただし、その皮膜を作り出したのは「見て」「剥ぎ取った」作者である。その皮膜をとおして作者の「見ること」の有様が見えてくるとしたら、「皮剥師」としての粟津の作品として位置付けられるのではないか。粟津潔の次の言を借りれば、それは「思考」の痕跡とも形容しうるからである。


 「思考するというのは、見るということである。だが何も見えないこともある。それは何もできない。何もつくりだすことができない。だがそれでよいこともある。見るということの中で、ひとつの充溢に出合えばよいと思ってきた。見るということが、私自身をつくり、決めて行く。見ることが支える。」(10)


 粟津の一群の写真を支えているのは、自身の「見ること」=「思考すること」なのである。


深川雅文(インディペンデント・キュレーター/ クリティック)


(1)粟津潔著『造形思考ノート』(河出書房新社 1975年刊)あとがき p.157

(2)粟津潔著『粟津潔デザイン図絵』(田畑書店 1970年刊、[復刻版  青幻舎 2006年刊])p.23

(3)前掲『造形思考ノート』 pp.155-156

(4)東京デザイナーズ・スペースでの粟津潔写真展の存在については、実際に粟津のネガから写真をプリントし写真展として構成した写真家、山崎博氏より話を伺った。

(5)粟津潔論文「複製が本物である時代」 『粟津 潔・作品集』(一巻 講談社 1978年刊)所収 p.191 初出は粟津潔著『デザイン夜講』(筑摩書房 1974年刊)

(6)前掲論文「複製が本物である時代」 p.192

(7)粟津潔論文「皮を剥いだら何残る」『粟津 潔・作品集』(一巻 講談社 1978年刊)所収 p.196 初出は粟津潔著『デザイン夜講』(筑摩書房1974年刊)

(8) 『アサヒカメラ』(朝日新聞社 1972年4月号)p.147

(9) 多木浩二論文「映像の逆説 奈良原一高論」『デザイン批評』(風土社 1967年4号)所収 pp.145-146

(10)前掲著『造型思考ノート』あとがき p.157

※本稿の執筆のための調査取材に協力いただいた、山崎博氏、渋川育由氏、川村易氏、室賀清徳氏、柳本尚規氏、菅沼比呂志氏に記して感謝申し上げます。


●解題 


本論文は、2009年1月24日から3月29日まで、川崎市市民ミュージアムで開館20周年記念の企画展として実施された展覧会「複々製に進路をとれ 粟津潔60年の奇跡」展の展覧会図録(pp.110-113)に収録された。グラフィックデザイナーとして多彩な活動を行なった粟津潔の写真に関する先行研究はほとんど無い中、手探りで執筆した。その際、大きな助けとなったのが、調査取材の協力者として挙げさせていただいた方々であった。粟津潔の写真への関心に影響を与えたたと思われる写真家の山崎博氏の言葉は中でも重要なインスピレーションとなった。その山崎博氏は、写真家として重要な足跡を残した後、2017年に他界された。


2017年の4月29日から7月23日まで金沢21世紀美術館の展示室12で、粟津潔の写真に関する新たな調査に基づいた展覧会「海と毛布 - 粟津潔の写真について」(粟津潔、マクロヒロゲル4)が開催された。企画者の学芸員、高橋律子氏による同名の展覧会記録集は、粟津潔の写真に関する新たな研究として貴重な仕事となった。粟津が開催した自身の写真展についての新たな発見もあり、粟津潔の写真の仕事について関心のある方は、ぜひ、高橋氏の論文「粟津潔の写真について」(pp.18-24)を拝読していただくことをお勧めする。


(ふかがわ まさふみ 川崎市市民ミュージアム学芸員〔当時〕)

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