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essay: 日本のプロダクトデザインにおける「和」の様相

2008年10月22日


執筆  深川雅文


※「WA:現代日本のデザインと調和の精神」展 (国際交流基金巡回展: 2008年〜2011年)展覧会カタログ寄稿テクスト


Aspects of “WA”: Harmony of Japanese Product Design by Masafumi Fukagawa

Text for an exhibition: WA:THE SPIRITS OF HARMONY AND JAPANESE DESIGN TODAY (2008)

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日本プロダクトデザインにおける「和」の様相 


●序 

 20世紀末から21世紀にかけて、日本は、経済的には未だバブル経済崩壊による不況が続いていたにもかかわらず、プロダクトデザインの領域で日本発のオリジナルな製品が誕生し活況を見せ始めた……たとえば、トヨタのPRIUS、ソニーのAIBO、等々。その流れは、経済状況の好転と社会・経済のグルーバル化の急速な波とも相まって、21世紀の最初の10年にさしかかろうとしている現在(執筆時:2008年)、加速度を増し、豊かな成果を生み出しつつある。本展覧会は、そうした状況にある現代日本のデザイン・スケイプを目に見える形にしようという試みである。一体、今日の日本デザインの活性化の根底に流れているものは何なのだろうか? 本論では、日本のプロダクト・デザインの個々の特性について述べるより、むしろ、それを生み出している文化的、社会的な深層構造について見てみたい。そうすることで、日本の文化に根ざしたデザインのあり方が見えてくるかもしれないと思うからである。


●現代日本デザインにおける「和」の様相 

   日本人の徳目に「和」というものがある。日本史上、中央集権が強化され天皇制が確立されるのは七世紀頃のことである。日本初の憲法、十七条の憲法の制定(604年)はその象徴的出来事だった。その制定の中心に聖徳太子という人物がいた。本憲法は「和を以て貴しと為し、忤ふこと無きを宗とす」という有名な文章で始まる。「和」が日本的な美徳として広まった所以である。「和」とはさまざまな異質な要素も含みながら全体として調和した状態のことである。「和」=「調和の状態」は、久しく日本人にとって、人と物の理想的なあり方とされた。「西洋」の「洋」に対して、「和」という言葉が対置させて用いられるように「和」はさらに「日本的なもの」を意味することになった。たとえば西欧の食に対して、日本の食を「和食」と言うように。あるいは、「和服」に対して「洋服」と言うように。  ところで、「WA:現代日本のデザインと調和の精神」展(2008)のキュレーターチームは、互いに現代日本デザインの状況を調査していく途上で、「日本」のデザインという観点からではなく、むしろ、調和という意味での「和」のデザインという観点から見ていくと、次のような日本のデザイン・スケイプがより明瞭に見えてくるという共通認識に行き着いた。日本では、今日、デザインを取り巻くさまざまな要素(それらは一見したところ相反する性格を持つようにも思われる)が、互いに共存しながら、結びつき、相互に作用しながら新たな価値と形が生み出されている。   たとえば、自然と人工、手工芸と工業、伝統と先端テクノロジー、地方と都市、中小企業と大企業、周縁と中心、ローカルとグローバル、日本的なものと西欧的なもの、モダンとポストモダン、個別化と普遍化、遊びと実用、感情と理性……こうした一見対立するように見える要素が、プロダクトデザインの生成過程において、一方が他方を駆逐するのではなく、共存しつつ融合することで豊かな創造の営みをみせている。これをデザインの創造における「和」の状態と見ることができよう。  具体例を挙げよう。かつて、戦前より、柳行李や脱衣籠など日本には籐を巧妙に編み合わせた手作りの民藝的な収納器具が日常的に利用されていた。戦後、プラスチックの普及によって籐製の収納器具が駆逐された後、1970年代から1980年代にかけて籐製の椅子や棚などのインテリア用品がブームとなった。そのブームは長くは続かず業界は冬の時代を迎えた。明治末期に創業した籐製品メーカー、ツルヤ商店(山形県)は、こうした苦境を克服するために、行政が推進する企業コンサルティングのコーディネートを通じて、日本のデザインの最先端で活動している東京のデザイン事務所「TONERICO」(TONERICOはパリにおける本展空間デザインを担当)にデザインを依頼した。トネリコは、籐製品の軽やかな感触を生かしながら、伝統的な造形手法にないステンレスフレームと籐製の座面を組み合わせた椅子などの斬新なデザインを提案し、籐製品に新たな可能性を切り開いた。地方で発展して蓄積された伝統工芸的な技術が、都市、中央部でグルーバルなデザインの展開と蜜に接触しているデザイナーとのコラボレーションによって再生したのである。こうした事例が、地方のさまざまな企業で生まれつつある。現代日本を代表する先端的なデザイナーのひとり、深澤直人と創立1928年の、家具作りに卓越した職人技を蓄積してきたマルニ木工(広島県)のコラボレーションによる椅子とテーブルも、伝統と先端、職人技と工業、地方と中央などの調和のなかで生み出された製品の好例である。  もうひとつの例を挙げよう。工業生産を行う大企業と中小企業は、経済的には中小企業は大企業に依存する関係にあるが、技術の相互依存という点では、大企業の中小企業に対する一方的な支配関係とは必ずしもならない。大企業の製品が、高度な独自技術を持った中小企業によって支えられているという側面も見逃せない。たとえば、世界初のハイブリッドカー、トヨタ自動車のプリウスは、たしかにトヨタの製品であるが、このハイテク・エコカーの部分部分は、高度な独自技術を有する中小企業が作った精密かつ精巧な部品からなる。そのひとつでも欠ければ、製品にならない。たとえば、燃料噴射装置は、神奈川県の某市の中小企業が生産している。その部品の出荷が滞れば、プリウスの生産にも影響を及ぼす可能性もある。わが国の優れた企業は、大中小の規模にかかわらず、高度な技術を武器にしている。日本各地に点在しながらさまざまな工場に蓄積されている高度な技術が集積して「和」をなすことで、画期的なプロダクトの誕生を可能にする豊かな土壌が育まれているのである。  今日の日本のプロダクトデザインの世界には、このようにして、一見、対立するかに見える要素を、調和、統合、融合させながら新たなプロダクトを作り出す動きがさまざまな形で現れている。デザインにおける「和」のサークルの波状的な広がりが、デザインの活性化の根底にあるのである。


●日本のデザインにおける「和」の原型 [戦前] 

 ところで、日本のデザイン史を振り返ると、今日のデザインにおける「和」の様相の萌芽をすでに1920年代から1930年代の「民藝」も含んだ工芸運動に見いだすことができる。注目すべきは、この時代に「手工芸」が占めた文化的位置づけである。手工芸は、1930年代の日本において、欧米列強と肩を並べようとしたアジアの一国、日本にとって、独自の文化的特性と優位性を示す重要な領域と目され、文化的、経済的かつ外交的戦略のなかで独自の役割を持っていた。  名取洋之助という男がいる。ドイツで写真家として活動し、当時、ヨーロッパを席巻していたグラフジャーナリズムの洗礼を受けて帰国後、新たな情報メディアとしてグラフ雑誌を根づかせようと「日本工房」(Nippon Studio)を設立し、1934年10月、日本文化を海外に向けて紹介する本格的なグラフ雑誌『NIPPON』を世に出す。『NIPPON』の誌面では、日本の手工芸がたびたび紹介され、その卓越性と文化的な意義が熱く論じられた。創刊号の表紙は、紙人形という日本独自の工芸品とモダンを象徴する近代建築の写真を重ね合わせている。これは「和」の工芸と「洋」の新建築が共存する国としての日本のイメージを象徴している。  1937年のパリ万国博覧会に合わせて出版された『NIPPON』 11号(1937年5月発行)では、日本の「手工芸」のさまざまな作品と作り手が紹介されている。たとえば、民藝運動の中心人物のひとり、濱田庄司の陶芸が紹介されている。「日本の手工芸」を特集した『NIPPON』15号(1938年6月発行)はその集大成である。この号は、民藝運動の中心人物であり「日本民芸館」をその前年に開館させた柳 宗悦の文章「東洋と手工芸」で始まる。

 「現代科学によって高度に発展した産業工芸を受け入れ、利用することは避けられないが、同時に私たちは長い伝統のある手工芸を守り保存しなければならない。このいずれか一方を強調して他方を無視するのは、芸術的にも社会的にも悲劇的なことになる。文化が全体として進展することができるのは、産業工芸と手工芸の両方が同時進行することによってである。かつて、この二者は対立しぶつかるものであるという誤解が存在した。私たちは同じ過ちを続けてはならない。とりわけ、東洋の文化と西洋の文化が素早く融合し合う日本においては、この二つの同時の発展が最も必要とさせるのだ。産業革命が手工芸者とその技術を壊滅させた(西欧の)国々では、手工芸と産業工芸が並行して発展することは望むべきも無いが、機械的な生産プロセスも世界水準に到達し、同時に数えきれないほどの熟練技術者たちが伝統的な領域で仕事を行っている日本ならでは、このような二者の並行した発展は極めて自然なものである。……」

 柳は、この文章において、手工芸と産業デザインが両立可能であるという日本独自の姿勢を強調し、モノづくりにおいてわが国においては一見対立する要素が共存しうるという事態を日本的特性として見事に描き出している。これは、前節で論じた現代のデザインの状況の原型というべき記述である。伝統工芸と産業工芸の共生は、東洋文化と西洋文化の融合のひとつの形であり、まさにこの点において日本は独自の文化と歴史を形成するというのである。  『NIPPON』 15号は、手工芸品に加え、光学機器などの工業製品や工芸指導所によって性様されたモダンデザインの家具、1940に予定されていた日本万博のための建築モデルも紹介しており、全体として、伝統とモダンが調和した国家という日本のイメージを浮き上がらせる。  すでに、『NIPPON』2号(1935年1月発行)のなかで、「伝統」と「モダン」の調和が遥か以前の歴史的建造物に象徴的に見いだされるという論点は、ドイツ人建築家、ブルーノ・タウトのエッセイ「日本建築の世界的奇跡」で披露された。タウトは、17世紀半ばに京都に建造された桂離宮を訪れ、そこでモダンの理念に通じる空間と造形を発見して驚嘆した。装飾性を極限まで削り取った桂離宮の部屋の空間造形には、当時の新建築の目指すモダニズム的造形に図らずも共鳴するものと受け止められたのである。伝統とモダン、このふたつの融合、統合、つまり「和」こそが近代化を目指した日本のあるべき独自の姿であり、その歴史的源泉のひとつがタウトによって探り当てられたのである。この論文は、日本の文化的独自性と卓越性を示す最高の論拠となった。タウトは、続く『NIPPON』3号(1935年4月発行)にも寄稿し、日本のさまざまな手工芸品が、伝統的であると同時にモダンであると述べ、モダンの種は、日本の文化に内在しているとの見方をあらためて提示している。[注]


●総合する力と調和する力  

 本論では、デザインにおける「和」の現在(2000年代初頭)とそのルーツについて紹介した。現在と戦前となる1930年代の間に横たわる約70年の時代的な隔たりを最も感じさせ、すぐれて21世紀的現象と思われるのは、「和」の状態が、広範囲にしかもハイスピードで進行している様子である。その背景には、デジタル技術の進展とグローバル・ネットワークの浸透というまさに21世紀的な文化・社会的な革命の様相が反映されている。情報インフラと移動手段のさらなる発達によって、「和」の可能性は高められ、「和」の状態にいたるスピードが加速されている……たとえば、地方の伝統的メーカーと中央のデザイナーが、きっかけさえあれば、インターネットによって瞬時に繋がり合い、共同プロジェクトを立ち上げ、斬新で高品質なデザインを市場に投入する。こうしたことが、日本のデザイン史上、かつてなかったほど活発になっている。今日の日本のデザイン力の源は、モノ作りを構成する、人とモノ、技術と文化、経済と生活などさまざまな要素の総合力とその成果を常に前進させようとする作り手の柔軟かつ強靭な意志にあるのである。


(ふかがわ まさふみ 川崎市市民ミュージアム学芸員〔当時〕)


[注]『NIPPON』は終戦直前の1944年まで、全36号が発行された。戦争の進展とともに国家的プロパガンダという性格を強めていった。


所収:「WA:現代日本のデザインと調和の精神」展 [WA:THE SPIRIT OF HARMONY AND JAPANESE DESIGN TODAY](国際交流基金巡回展: 2008年〜2011年)展覧会カタログ寄稿テクスト

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