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review 「Assembly」宇田川直寛

2017年2月1日


執筆  深川雅文


「写真」ゲームの構造体


モダニズムのアート概念は今も根深く、そこに安寧を見出す精神にとっては、宇田川の展示は、ひょっとしたら脈絡が見出せない混沌に映るかもしれない。というのは、この展示で、宇田川は、モダニズムのアートを縛ってきた表現のルールそのものに挑戦しようとしているからである。


たとえば、一旦、壁に架けられた額装された写真が、結局、取り外され、それを固定するはずの受け木を展示空間の構造物の断片としてそのまま露出させ、作品化してしまう、という具合に。ホワイトキューブ空間での「展示」のルールそのものを時に摘み出して投げ捨て、また、あるルールに従って制作物を展開して設置したかと思うと、それを放り出して次のルールへと横滑りし、さらにそのルールからもドリフトするという行為を繰り返し、木材、アクリル板、ダンボールといった素材を用いた構造物に写真をインテグレートさせた空間を積み木のように重ねている。  


その写真はというと、この作品の制作過程で生み出されたモノの写真であったりして、何か明確な意味を持った対象を指示することはなく見る人を当惑させる。作品全体の中の各所で、制作過程で生み出されたモノを自己言及的に提示する役割だったりする。作り出されたモノとそれに言及する写真といったパーツが入れ子状にアッセンブルされながら、重層かつ縦走的な空間を現出させていた。展示場の記録写真で、本展の鮮烈さを伝えるのは至難の技であり、もはや、ライブアートの領域に足を突っ込んでいると言っても過言ではない。 


何が作家をそこに向かわせたのか? 宇田川は、写真での表現を目指して、作品のテーマと対象を求めて自転車での放浪の旅にしばらく出たものの、写すべきものは何も見つからずに帰還したという。外に写すべき対象が無いという悲しい自己確認に辿り着き、写真家としては断崖絶壁に立った挙句に、身近にたまたま見つけた些細なモノや身近な人(父だったり)をカメラで拾い上げるような写真行為へと移行していった。落書きや自らの手遊び風に作ったモノなどを写真にインテグレートさせながら、それをいわば建材として写真集や展示空間を編み出すという写真行為に出口を見つけ、飛び出した。写真における対象ロスは、実は、宇田川だけが直面した危機ではあるまい。今、本当に写すべき対象はどこにあるのか? 宇田川は、そこから脱出し、写真をインテグレートする構造を自らのプログラミング、ルールのインプロビゼーションによって描くという写真表現の新たな次元に手をかけたように見える。


写真は、これからますます面白くなる。宇田川の展示を見ていると、最近、見たばかりのトーマス・ルフの写真展で繰り広げられている実験は、はるか歴史の領域に溶け込みつつあると思わざるを得なかった。写真表現のランドドリフトの胎動を聴いてみてはいかがだろうか。「混迷の」と形容されがちな2017年の幕開けを祝うにふさわしい、写真表現を巡る現状のブレイクスルーへの道を照らし出す、目が覚めるような展覧会であった。


(ふかがわ まさふみ キュレーター / クリティック)



宇田川 直寛 個展 「Assembly」 2017 1/5~1/23 @ QUIET NOISE arts and break


初出: 本展評は、『美術手帖』( 2017年3月号 174-175pp)に掲載された。

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