essay 「闇の光 吉村朗の軌跡」

2014年9月30日


執筆  深川雅文


闇の光 吉村朗の軌跡  


I. 飛翔/SOAR  1980~1993年


「ウィークエンド・ピクチュア」


吉村朗(よしむら あきら)の名前が、わが国の写真の世界に期待すべき新進作家として登場し始めるのは、1980年代半ばからのことである。人々が往来し蝟集する路上や公園など日常的な生活空間での人間模様を独自の視点で捉えるスナップ写真家として脚光を浴びた。その最も象徴的な出来事に、1988年3月に発刊された『 日本写真全集12巻 ニューウェーブ 』での吉村の作品「ウィークエンド・ピクチュア」の(1983)の掲載がある。この巻は、「ニューウェーブ」と題されて、当時のわが国の現代写真を担う注目の写真家たちの仕事が紹介されていた。掲載されたのは、夏の日にひとびとが集まって楽しんでいるプールの人間模様の写真であった。写真に添えられた、作家紹介の文章は次のようなものであった。


「ウィークエンド・ピクチュア」 吉村晃(ルビ: よしむら あきら)昭和58年 (1983)  昭和34年 (1959) 福岡県北九州市生まれ。57年 (1982) 日本大学芸術学部写真学科卒。59年 (1984) 東京綜合写真専門学校研究科卒。在学中よりグループ展を中心に活動。個展に59(1984)年「ウォーカーズ パラダイス」、60年 (1985)「On Photography」、62年 (1987)「IMAGES」。(吉村は、1991年に「晃」の字を「朗」に改名した。戸籍上の改名ではなかった。)


写真評論家であり吉村が学んだ東京綜合写真専門学校の創設者かつ校長でもあった重森弘淹は、『日本写真全集』の同巻に寄せた文章「総論 ニューウェーブ」で80年代の写真の動向を論じ、吉村のこの作品を取り上げ「(その作品は)現代の大衆社会とその風俗が、虚構そのもののようなカラー写真の色調に奇妙にぴったりとしている。」と述べ、虚構性を帯びた現代社会のあり方を、それに相応しい禍々しいカラーの色調で描き出した作品として高く評価している。写真評論家の平木収は、連載写真家論「現代写真の元気な冒険者たち」のシリーズで「ヒトの風景を見つめる 吉村晃」と題して取り上げている。この吉村論のなかで、前述の作品「ウィークエンドピクチャー」の中心にに写っている「お父さん」の存在に着目し、家族や友達といった人間の関係をスナップで掬い取るという当時の吉村作品の特徴を紹介した。また、平木は、吉村のスナップショットの特徴は、広く流布している通常の意味での「瞬間芸術」としてのスナップショットではなく「ソーシャル・ランドスケープ(社会的風景)をもっと細分化した人間の、あるいは人間関係の風景である」という分析を行っている。1980年代、吉村は、伝統的なスナップショットとは一線を画するスナップショットの新たな可能性を切り拓く写真家として脚光を浴びながら、ギャラリーや雑誌で積極的に作品を発表していった。


この時期、スナップショットは、吉村にとって最も重要な写真の方法論であった。1985年12月、銀座のギャラリー葉で現代美術展「WINDOW OF DECEMBER 新空間の共有」が開催され、吉村は、絵画やインスタレーションなど多彩な参加作家のなかで唯一の写真作家としては参加していた。吉村は、この展覧会で、上野公園で撮影した家族や子どもたちのカラーのスナップ作品を展示し、展覧会パンフのなかで写真の作品について次のように記している。


「色彩を特殊な問題として取り扱わないと云う柔軟性と、写真が作品として成立し得ると云う考えのもとでの発想ですけれど。優れた写真作品である為に必要な条件とは、①記録としての価値。②偶然性が生み出す衝撃力。③その他(原文傍点あり)。①と②は写真美(原文傍点あり)が有効に機能する為に不可欠な条件です。①は時間的経過により力を発揮します。②を際立たせる為に私はスナップショットと云う技法を用いています。③その他にも様々な条件が要りますが、これは作者にとって取るに足らぬ、雑然とした未整理の部分をたくさん作品中に残すことである程度の効果を期待しています。」 


吉村がカメラを向けたのは、路上や公園など日常的な場面で見いだされる光景であるが、その場面を作品化の意図をもってスナップショットで切り込んで一瞬を定着すると、既存の日常的光景に対して微妙なズレが生み出され、一転して非日常的なイメージが生起してくる。日常的な視覚が、作家の意志とその意志でコントロールできない偶然性の介在によって異化され、そこに「衝撃力」が生まれる。その力は、写真ならではの表現であるとともに、絵画や立体造形など現代美術のジャンルと同じ土俵で対抗しうる芸術表現としての力を持つということを吉村はこのグループ展のなかで主張したかったように思われる。


「WALKER'S PARADISE」―初個展―


この展覧会の前年の1984年は、初個展を開くなど、作家活動を本格化させた重要な年となった。


ギャラリー葉で開催された初個展「WALKER'S PARADISE」では、歩行者天国を散歩する人々を撮影したカラーのスナップが展示され、そこには吉村の独自の視点がすでに明確に貫かれていた。本展に関して特筆すべきは、写真展であるのに、案内のDMには写真を載せずに自らが手描きした太極拳の所作の図解を掲載し、また、展示場にはビデオセットを持ち込み、作品とは直接関係のない怪獣物のビデオを借りてきて流すなど、一般的な写真展とは異なる趣きを加えていた点である。こうした趣向は、作家としてスタートする初期の段階から、発表の場を写真専門の場に限るのでなく、現代美術グループ展に積極的に参加する姿勢に見られるように、より開かれた芸術表現の地平で勝負したいという意志から生まれたと思われる。芸術家への志向は、吉村は、幼い頃から絵を描くことも好きで得意とし、大学受験に際して、写真家だけではなく、画家の道も志望し、東京芸術大学も受験したという経歴からも見て取れる。


同年、初個展の直後に、新宿のオリンパスギャラリーで、吉村が在籍していた東京綜合写真専門学校の研究科の卒業展「個・展」が開催されて参加した。その展覧会の案内DMには、前出のプールサイドで撮った写真がカラーネガフィルムのコンタクトプリントの形で掲載されており、卒業生のなかでも注目されていたことがわかる。


吉村の活動は、同校研究科在学時から学校の枠を超えた広がりを見せていた。1984年の5月、茨城県筑波研究学園都市にある筑波大学の大学会館ギャラリーと芸術学系工房ギャラリーで、現代写真の展覧会「15 contemporary photographic expressions 3rd」が開催され、参加作家のひとりに名を連ねている。この展覧会には、筑波大学の芸術専門学群に在学中の学生からフリーの写真家まで多様な出自の若手作家が参加し、現代写真の新たな多様な表現を紹介する展覧会であった。この展覧会に吉村が出品したのは休日の新宿、渋谷などで撮影された人々の路上風景で、「にちようび」というタイトルであった。同展のカタログに掲載された自身の肩書きには明確に「写真家」とあり、作家として進んでいくことへの意志が端的に示されている。その翌年、1985年に、茨城県の筑波市では、つくば科学万博開催に合わせ、日本で最初の写真美術館「つくば写真美術館'85」が期間限定でオープンし、そこで開催された展覧会「パリ、ニューヨーク、東京」の日本の現代写真家を紹介するコーナーの中で、吉村も紹介された。このコーナーに選ばれた写真家のなかには、前述の「15 contemporary photographic expressions 3rd」展に参加し畠山直哉、築地仁、島尾伸三、長船常利などの名前も見られる。この美術館は、日本の写真専門ギャラリーの草分けのひとつであるツァイト・フォトのディレクター、石原悦郎が実現したもので、まだ日本には無かった本格的な「写真の美術館」を実現してみせた画期的な試みであり、そのメインの企画が、自らのコレクションで写真の歴史をその発祥時から現代まで辿ろうという写真展「パリ、ニューヨーク、東京」であった。本展の日本の現代写真のコーナーで紹介された26名の写真家には、柴田敏雄、畠山直哉、小林のりお、伊奈英次など、その後、90年代の日本の現代写真を牽引していく主要な作家が含まれていた。初個展の開催に続く筑波での展覧会への参加によって、吉村は、新世代の写真作家としての存在感を内外に広く示すことになった。


たんなるカメラマンではなく、作家としての写真家になりたいという強い意志は、すでに大学時代に芽生えていた。1980年、日本大学芸術学部写真学科三年生の夏に、吉村は、オーストリアのザルツブルクで開催されていた国際的な写真ワークショップ「ザルツブルク・カレッジ・インターナショナル・フォトワークショップ」に参加した。70年代にスタートしたこのワークショップには、写真表現の第一線で活躍する、国際的に著名な写真家を講師に招き、アメリカの大学からの参加者を中心に諸外国の受講者を集めていた。1979年には、写真家の細江英公が講師として招かれており、国内の写真関係者にも知られるようになった。1980年夏のワークショップには、講師の一人として、当時、ウィーン在住の写真家、田中長徳がいた。招聘される講師が、作家性の高い写真家であることからも推測できるように(たとえば、ラルフ・ギブソン、シンディ・シャーマンなども含まれている)、表現としての写真を学ぶことを主眼としていた。このワークショップに参加して、吉村は、新たな写真表現を産みだすための実践的な訓練を受けるとともに、同時代のさまざまな写真家の仕事を見聞きし、作家としての表現の独自性とは何なのかについての知見を得た。オーストリアでのワークショップ終了後、しばらくヨーロッパ滞在を続け、ドイツ、ベルギー、フランスなどを旅して撮影した。日本では当時、アメリカの写真の影響が大きく、情報としてもアメリカ経由のものが多かったが、吉村は、たとえば、ドイツの写真家、ヴィルヘルム・シュールマンなど日本ではほとんど紹介されていなかった、ヨーロッパ圏の写真家たちの作品の動向に触れることで、写真表現の広がりを国際的な視野で見ることも学んだ。1982年、日大芸術学部写真学科卒業後、数々の写真作家を世に送り出してきた東京綜合写真専門学校研究科に入学したのは、国内外の写真表現の世界をさらに探求し、自らの作家性を確立するための研鑽の場を求めての決断であったと思われる。


作家として生き抜くためには、たんに「いい写真」を撮ることができるだけでは不十分で、作品の独自性が問われる。吉村は、写真家を志向した当初からこのことに意識的であった。それは、初期の段階では、さまざまな作家のスタイルに注目して、それを取り入れるという形で現れた。写真評論家の平木収は、前出の連載写真家論のなかで、吉村の写真を初めて見たときの印象を「“スタイルを無理に作ろうとしている”という感じ」と記している。「吉村晃は目先のスタイルというかパッと見た様式をとにかくよく変えた。いわくジョール・マイヤーウィッツ風、田中長徳風、島尾伸三風、マーチン・パー風、そしてひっくるめてアメリカの“ニューカラー”風。モノクロでは、ウィノグランドやパパジョージに見えたりもする。器用なのである。」 筆者は、80年代の末に、キュレーターと作家という関係で吉村と出会い、その作品を見始めた。当時、吉村が自分の作品について語るとき、さまざまな写真家の傾向の話が出て、同様の印象を持ったことがある。ただし、その後の吉村の展開を振り返ると、たんに流行を追うというのではなく、同時代の写真表現に関して、日本国内のみでなく国際的な視野を持ってさまざまな動向に敏感に目を配りながら、独自性を確立するためにスタイルの実験を行っていたと思われる。吉村の初期の代表作であり、冒頭に紹介した「ウィークエンド・ピクチュア」は、こうした試行錯誤の実験を経て結実した作品であった。そこからは、吉村が吸収した同時代の現代写真のいくつかの兆候を垣間見ることができるが、それらを作品制作の過程で実験し消化した結果、生まれた吉村ならではの作品であった。こうした作品により、「吉村=スナップショットの独自な作家」という認識が広がるが、当の本人は、取り入れたスタイルを、自身の作品のアイデンティティーにとって絶対的なものと考えていたのではなく、写真表現のさまざまなスタイルに対して距離感を保つ冷静な態度を有していたことも書き添えておかなければならない。


1985年、二回目の個展「On Photography」(ギャラリー葉)では、ストリートスナップにおける色彩の可能性を探ろうとする作品を発表した。これは、80年代初頭にアメリカに生まれて注目された「ニューカラー」という写真表現の動向を彷彿とさせる作品であったが、展覧会タイトルに暗示されているように、そうした動向をたんに真似るのではなく、写真の方法論自身を問いかける姿勢が感じられる作品であった。写真に没入する一方で、そこから一瞬、抜け出し距離をとって客観視するようなアクロバット的な精神の運動が吉村の中にはあったと思われる。1983年の現代美術のグループ三人展「Superpositions」(ギャラリー葉)への参加に見られるように、初期の段階で、写真という領域に自らを閉ざすのではなく現代美術の他ジャンルとの交流を行うグループ展に積極的に参加し、写真固有の芸術的可能性を他ジャンルの作品との競演のなかで追求していた。その姿勢からは、写真に身を投じ没頭しながらも、写真というメディアに距離を取り、相対化するという独自のスタンスが見えてくる。このスタンスには、そもそも、吉村は若き日に画家を志しながら写真を手段として選んだということとも深く関わっていたと思われる。


1985年は、つくば写真美術館での「パリ・ニューヨーク・東京」展への参加、ギャラリー葉での現代美術のグループ展「WINDOW OF DECEMBER」への参加など、吉村の作家人生のなかでひとつのターニングポイントの年となった。東京綜合写真専門学校研究科を卒業後、たかだか1年しかたっていないことを考えると、驚くべき展開であった。その後、80年代後半から90年代初頭にかけて、自らの作品発表の場を広げながら、スナップショットの注目作家として、同時代の写真家と写真に関心を持つ人々のなかで、その名が知られるようになった。この時期に吉村が参加したいくつかの展覧会について触れておこう。


1987年に、有楽町朝日ギャラリーで開催された「写真・展」は、写真家の谷口雅が企画した現代写真のグループ展である。参加したのは、伊藤義彦、伊奈英次、小林のりお、笹谷高弘、柴田敏雄、吉田友彦、吉村晃の七人であった。谷口雅は、つくば写真美術館で開催された1985年の「パリ、東京、ニューヨーク」展のキュレーターのひとりであり、わが国の新進の現代写真作家の発掘と育成を意識した写真展の企画と作品発表の磁場を形成することに尽力した。本展覧会は、そうした意図の下に谷口が中心となって企画した「PHOTOGRAPHY METROPOLICE TOKYO 1987 」という写真イベントのプログラムの一つとして実施された。吉村が発表したのは、前述の「On Photography」で発表した作品に連なるカラーのスナップ作品であった。


1988年には、吉村は、Gアートギャラリーで善財一との二人展、「Another Glimpse」展を開催する。ともに公共空間に集まる人々のスナップショットを手法として取りながら、作風が異なる二人の写真家による、いわば「セッション」的な展覧会であった。吉村はカラーのストリートスナップショット、善財はモノクロのスナップを発表した。この展覧会には、カメラ雑誌や美術雑誌でも取り上げられるなど、メディアからの反応もあった。本展覧会での吉村の作品は、「ここち良いひととき」という題名で1988年の日本カメラ9月号で紹介されている。注目すべき写真展や写真集を対談形式でピックアップするアサヒカメラのフォトウォッチングのコーナーで、日本カメラでの吉村作品が取り上げられ、当時のレギュラーメンバー、玉田顕一郎は、「ここちよいひとときなんだけで、なんだかシラケた時代、という感じをとらえている。」と述べている。吉村は展覧会告知用のパンフで自分の作品の下に次のような言葉を載せていた。「モティーフとの関係に隷属するための、隷属からの後退」路上での被写体にぎりぎりと肉薄しながらも、どこかで醒めた眼でその現象から距離を取って、見つめている吉村の姿勢がこの言葉から読み取れる。「なんだかシラケた」という玉田の言葉は、こうした姿勢に触れていたのである。この展覧会は、1988年の美術手帖11月号の展評欄でも「写真作品の交流空間 善財一・吉村晃二人展 "Another GLIMPSE"」(執筆 平木収)というタイトルで取り上げられた。


スナップショットを共通の手法とする複数の写真家によるセッションという形式の展覧会に、吉村は積極的に参加している。1989年には、東京・自由が丘のインペリアルギャラリーでの豊原康久との二人展、「Keep Still -可能性に対応する現実体-」を開催する。展示された写真は、豊原はモノクロで吉村はカラーであった。その直後に、吉村はイトウユミコとの二人展「STATICS PART2」を三菱フォトギャラリーで開催した。さらに、同年の秋、善財、豊原、吉村の三人による新宿のオリンパスギャラリーでの展覧会「視覚幻実」に参加した。この展覧会のニュースリリースの冒頭には次のような言葉が見られる。「どれほど美しく又は心を打つ映像であろうとも、創造された世界を見せられることについては近頃少々食傷気味である。だからと、あえて強調したいのだが、偶然にしかも作者により個性の貫かれた眼を通して掘り出された現実空世界の視覚体験をすることは最も面白い。」(文:善財一)同年の年末の12月には、同じく、インペリアルギャラリーでスナップショットの四人展「LIKE A BLIND CAT PART2」が開催され、吉村、善財一、徳永浩一そして山崎弘義が参加した。希薄化する現実の手がかりを求めて作家たちがストリートスナップに活路を求めていた様子が伺える。


「街路疾走」、「街路迷走」、「街路を走る」


吉村が写真作家として活動を展開した80年代、日本の芸術文化としての写真のあり方に目を転ずると、写真の文化としての価値を社会的に認知させ、定着させることを目指して、写真美術館設立の運動が力強く推進されつつあった。前出した「つくば写真美術館」は、ツァイトフォトのディレクター、石原悦郎の個人的なイニシアティブによって設立された先駆的試みであったが、同時並行的に、自治体レベルで写真に関する本格的な文化施設を設立する計画が進行していった。その結果、1988年に、わが国で初の本格的な写真コレクションと写真部門を持つ公立のミュージアム、川崎市市民ミュージアムが設立された。翌年1989年には、横浜美術館が設立され、同様に写真コレクションを備え、写真に力を入れるミュージアムが誕生し、その流れが、1990年のわが国初の写真の専門美術館、東京都写真美術館の設立へと繋がっていった。


先陣を切った川崎市市民ミュージアムは、国内外の写真の歴史に関する展示企画を行うとともに、設立当初より、同時代の写真表現の可能性を積極的に紹介する方針を立てていた。写真評論家であり、同部門の最初の写真の学芸員となった平木収は、準備室の時期から、開館後の写真の企画展の柱のひとつとして現代写真をテーマに据えることを決心していた。その最初の企画展として、開館1年後に開催されたのが「現代写真の動向・展 TREND'89」である。9人と一組の作家(総数11人)がこの展覧会に選ばれた。その中に、吉村晃の名前があった。他の展示作家は次のとおりである…伊田明宏+上野修、五井毅彦、杉本博司、鈴木清、柴田敏雄、谷口雅、港千尋、ルイス・ボルツ、山本糾。なお、本展の作家選定には、写真家で写真評論家の谷口雅がゲストキュレーターとして加わり、学芸員の平木収と協議しながら展覧会を組み立てた。


展覧会カタログのあいさつ文に、選ばれた作家の特徴について次のように述べられている。「今回ご紹介いたします11人の写真家の方々は、現代をとりまくさまざまな状況の中で、鋭く研ぎすまされた感性とそれぞれの手法で対象に迫りながら、これまでの写真表現には立ち現れていなかった写真世界を、先取的に切り開こうとしています。」吉村晃は、80年代半ばから89年に至る積極的な発表活動が注目され、スナップショットによる新たな写真表現の可能性に取り組んでいる作家として選ばれた。本展では、「街路疾走 RUN THROUGH THE STREET 」というタイトルで、モノクロとカラーの両方からなるストリートスナップの作品を発表した。「現代写真の動向・展 TREND'89」は、吉村が美術館での写真の企画展に参加した初の展覧会となった。その後、シリーズ化されて、1995年と2000年に開催された「現代写真の動向・展」にも吉村は参加することになる。


こうした80年代の一連の展覧会での発表を通して、スナップショットの新鋭作家、吉村晃という認識が写真の世界には広まっていった。その後、90年代から2000年代にかけて、ストリート・スナップの作家のグループ展に参加するなど、吉村とスナップショットの結びつきは深かった。ところが、2010年代に入って、本人が下した決断は、衝撃的なものであった。これまで紹介してきた80年代の吉村の展覧会活動で発表されてきたスナップショットの作品群は、ほんの一部(数点)を除いて、作品としてはまとまった形ではほとんど残っていないのである。吉村が、2010年に東京から実家のある北九州市門司に引っ越しした際にまとめて送り、整理した作品・資料の類いが収められた段ボールが実家に残されている。その中には、展覧会や雑誌などで発表された吉村の代表的なストリートスナップの写真は断片的にしか見られない。韓国で撮ったストリートスナップのみが例外で、幾分、まとまった形でプリントが残されている。本論の冒頭で触れた、吉村の名前を広く知らしめることになった、日本写真全集に掲載された初期の代表作、「ウィークエンド・ピクチャー」のプールサイドのプリントも見つからない。調査の過程で、入校用に作品を複写したと思われる、4×5サイズのポジが一点だけがかろうじて発見された。自身の作品の処理について記したメモの一節に次のようなものがある。「90年代の大半は廃棄した。」資料を調査した結果、90年代以前の代表作もほとんど見つけることができず、作家の意志で残されていないことが判明した。


このことは何を意味するのだろうか。


吉村の作家活動の全体を前期と後期に分けると、1989年から1991年にかけて、「現代写真の動向・展」への参加などを含めて、ストリートスナップの写真家としての前期のひとつのピークに達しつつあった。1990年は、展覧会での発表活動を一切行っていないが、1991年には、「日本カメラ」誌上で、路上スナップのシリーズ「街路迷走」を一年間連載した。90年代最初の個展は、1991年11月に開催された平永町橋ギャラリーでの「街路迷走 HOMELESS RUN」である。これは「日本カメラ」で連載した作品を展示したもので、川崎で展示した「街路疾走」の流れにある作品であった。この年、個人的な出来事であるが、「吉村朗」に改名(読み方は変わらない)しており、作家名としてもこの名前を使い始めた。1992年は、個展・グループ展ともに展覧会を行っていない。これは、振り返ってみると、新たな転回へのひとつの予兆であったと思われる。その年に吉村が手描きしたドローイング作品がある。若き日に画家を志向した吉村の姿が垣間見られる。「鳥―B.S.へ」(Birds for Ben Shahn 墨汁・インク(コピー) 20.3×25.4cm)と名付けられた、鳥をモチーフにしたドローイング作品である。吉村は、これを1993年(酉年)の年賀状のメインイメージとして印刷して送付している。

1993年の夏、銀座ニコンサロンで個展「街路を走る RUN THROUGH THE STREET 1989-1993」が開催された。 路上のスナップシューターとしての作家の力量が存分に発揮されており、1992年の短い沈黙を払拭する力強い展覧会であった。その一方で、作家の新たな展開を予感させる内容も含んでいた。『アサヒグラフ』のコラムに本展の展評が掲載されているが、そこには作家の変化の予感も含めて次のように記されている。


「…展示は、まず、東京と川崎などで街を歩く人を撮った縦位置の大伸ばし三点で始まる。…さて、展示半ばに、古い絵を複写した写真がくる。聞くところによると、関東大震災の絵図だという。その辺りから後半部に入る。日本かなと思ってよく見ると、ハングル文字が看板に踊っており韓国の街のシリーズとなる。吉村の新たな展開である。心持ち、対象への距離、感情の持ち方に変化が見られる。スタンスが違ってきているのだ。近くとも異国であるがゆえだろうか、前半、決まっていたカウンターが紙一重のところでヒットしないいようなズレを覚えた。

震災絵図の複写に見てとれるように、今回の構成から、彼の中に、日本と韓国の関係に対する歴史的な関心が形を取り始めていることが感じさせられた。この動きは、彼の対象へのスタンスの変更を伴わずにはいないだろう。そうしたときに、都市に棲む現代人の生態を独自の観点から暴いてきたあの特異なカウンターパンチがどうなるのだろうか。今後の展開に注目したい。」(文 深川雅文 )


この展覧会は、吉村が80年代に展開してきたストリートスナップ作品の流れに連なる最後の展示となった。と同時に、日本と韓国の関係を巡る歴史上の屈折に対する作家の新たな関心と取組が本展で芽生えており、90年代初頭に大きな転回を見せることになる吉村のその後の作品に繋がる内容を孕んでいた点でひとつのターニングポイントとなった。


Ⅱ 転回/SPIN 1993~2006


「THE ROUTE  釜山・1993」


「街路を走る」の展示の直後、1993年11月に、「街路を走る」にも部分的に含まれていた韓国での撮影をメインにした写真展「THE ROUTE  釜山・1993」が平永町橋ギャラリーで開催された。DMの写真には、釜山市の写真館のショーウィンドウにそこで撮影された肖像がディスプレイされている様子を撮った作品が使われている。吉村の作品に登場してきた路上で遭遇したリアルな人々の姿は影を潜めている。案内のDMには「ネガカラーによる新作を発表します」との一文が添えられており、新たな方向への舵取りが暗示されていた。


釜山は、朝鮮半島南東部に位置する港湾都市である。日本に最も近い韓国の大都市であり、古くから日本との交流の窓口となってきたという歴史がある。北部九州の大都市、福岡市や下関市から約200キロの圏内にあり、関係が深い。吉村の実家は、北九州市の門司にある。韓国・朝鮮への重要な窓口であった釜山は、吉村が生まれた吉村家にとっても、特別な意味合いを持つ街であった。というのは、韓国併合に始まる日本統治時代に、父方の祖父は第二次世界大戦以前に朝鮮総督府に勤務しており、一族からは、現地で働く軍人、警官、医師を輩出するなど、韓国・朝鮮との縁が深い家であったからである。吉村の父は、終戦まで韓国で医師として働いていた。「THE ROUTE」には、日本からの韓国への「道」であるとともに、吉村個人にとっては吉村家のルーツを辿る「道」という二重の象徴的意味を含んでいたと思われる。韓国で日本が行った侵略的行為の歴史、そして、日本統治下の韓国に入植者としての関わりをもった吉村家の歴史を問いかける撮影の旅が、作品として明確な姿を見せたのが、この展覧会であった。吉村の意識のなかで、日本の侵略の歴史と吉村個人の歴史を問いかけなければならないという想いが大きく膨らんでいた。その強迫観念に突き動かされるようにして、韓国だけでなく、中国を含むその他、かつて帝国日本が猛威を振るったアジアの侵略地域で撮影し、同時に帝国日本の野望を叶えるべく国内各地に設置されて今日に密かに残っている戦争遺跡にカメラを向け、近代日本の帝国主義的な侵略史を自らの家族の歴史的出自とともに問いかけるという独自の姿勢を明確にしていった。その発端となったのが、本展であった。この作品は、1993年の日本カメラ11月号にも掲載され、作者のコメントを紹介する「口絵ノート」で吉村は、次のように記し新たな作品の進路を示している。


「吉村朗 釜山・1993


R・T・バッカー(古生物学者 恐竜温血説の提唱者)の受け売りで申し訳ないが、恐竜が絶滅した白亜紀の終わりのころ、地球は数千万年に及ぶ近く変動や海退などの結果、幾つかの大陸が互いに、地続きとなった時代であった。大型動物の行う特徴的な“集団大移動”を恐竜達も行い、これが大規模な疫病の発生を招く結果となった。これはとほうもない規模の遺伝子の融合によって起きる種の腐蝕である。もし天体の衝突が白亜紀末の大量絶滅を引き起こしたとするならば、生き残った(当時から現在まで種ぎ引き続いている)定住型の弱い小動物の説明がつかないのだ。つまり人類史上の大規模な移動―近代の帝国主義に至るまでの侵略史は、この様にして遺伝子学や免疫学などと結びついてしまうのだ。少々強引かなあ?でもとりあえずラインだけは確認しておこう。境界を越え移動する者は危険だ。CAUTION! YOU ARE CROSSING THE 38゜PARALLEL [筆者訳 警告! 南北朝鮮国境の38度線を越えるな]」


「分水嶺」


終戦50周年の年にあたる1995年に入って早々の2月に、銀座ニコンサロンで吉村朗写真展「分水嶺」が開催される。日本の大陸侵略の歴史的痕跡を、韓国・北朝鮮・中国が接する国境地帯への旅のなかで探し求めた写真を中心にしたモノクロの作品である。たとえば、日中戦争勃発の引き金となった盧溝橋事件で破壊された盧溝橋の欄干、瀋陽市の毛沢東像、北朝鮮に接する中国国境の街、図們の街路、その地に住む朝鮮族の人々の踊る姿、南北分断の象徴、板門店の軍事停戦委員会会議場と板門閣付近の様子、ソウルの西大門独立公園の記念碑などが暗く沈む込むようなトーンを基調に私的な視点で捉えられている。さらに、テレビ放映された金日成の葬儀の様子を画面上で捉えた写真も加わる。金日成総書記は、1994年に死亡した。世襲で総書記は引き継がれ、体制崩壊することなく今日に至っている。タイトルの「分水嶺」は国家を分ける国境を暗示しており、日本の大陸侵略を発端に生まれた、中国・朝鮮の国境を巡る事象を、私的なまなざしで断片的に取り上げ、積み重ねることで歴史を問い直そうとする作家の姿勢が総体として滲み出している。


この作品は、いくつかのルートから中国・韓国・北朝鮮の国境線に迫っているが、中心となるのは、朝鮮半島を国家的に二分する38゜線であった。これは、帝国日本の侵略が同地域にもたらした歴史的痕跡の最たるものである。というのは、終戦とともに、日本人は、自らが始めた朝鮮統治を放棄し、その地を捨てて逃走し、その結果、生まれた統治の真空地帯のなかで、両大国、ソビエトとアメリカの国際的な政治的闘争の産物として38゜線をはさんで二つの国家に分断されることになったからである。このことについて、吉村は、展示場に掲示したパネルで次のように記している。


「本来あるべき姿に比べると、我々は半分しかめざめていない。我々の情熱は冷めており、力は抑制され、精神的、肉体的資源はごく一部しか使われていない。―ウィリアム・ジェイムズ


8月7日と8日の2日間、日本は一体何をやっていたのか―50年前の夏の話である。9日には長崎に第二の原爆が投下され、同時にソ連が対日参戦した。無敵であるはずの関東軍は敗走する。いや僅かに配置された前線の部隊をのぞいて逃走したと云った方が正確か。誰もいなくなった司令部には、開けっ放しになった金庫から金銀紙幣が風にまかせて散乱するがごとき有様で、訪れた現地邦人を唖然とさせた。ソ連はそながら無人の野を征くように10日には朝鮮領雄基に達した。そしてこの頃になって、ようやく高見の見物が出来ないことに気付いたアメリカは乗り出して来る。アメリカとソ連は朝鮮を協同統治することに合意はしていたものの、その境界線をどくにするかをはっきりと決めていなかったのである。この交渉に当たったのが、当時陸軍大佐であったD・ラスク(後の国務長官)である。このまま傍観すればソ連をおそらく半島全域を席捲するであろすと判断した彼は、ソ連軍に対して38度線を越えて進駐しない様にと警告した。つまりこの時の電話での数10分の話し合いにより、ほぼ現在の国境(その後の朝鮮戦争で多少変化した)は決定されてしまったのである。 ―もし(イフ)日本がもう一週間早くポツダム宣言を受諾していたら、そしてアメリカがここまで分割統治に固執していなかったならば?と私が考えるのは歴史の法則に反しているだろうか。」


吉村は、「分水嶺」が紹介された「日本カメラ」1995年2月号の作家のコメント欄でも、38゜線について取り上げている。


「分水嶺 吉村朗

“もし日本が8月7日か8日、つまりソ連の参戦する前にあの勝ち目のない戦争を諦めて降伏していたら、ソ連はせいぜい旧満州ぐいまでしか進駐してなかったのではないだろうか?”私の疑問である。頭の良い彼女はすぐに次のように返答した。“私もそう思います。ソ連が攻めてきたのは広島に原子爆弾が落とされたあとなのですから…、私も残念だわ”

歴史にIFは禁物だが、それにしても、なぜ塗りかえることが出来ないのか?

今にも雨の降り出しそうな12月30日、板門店ツアーの休憩所で、私はガイドの彼女と向かい合ってインスタントコーヒーを飲んでいる。」


「釜山・1993 THE ROUTE」から「分水嶺」へという作品の展開をとおして、吉村は、日本の侵略戦争にまつわる歴史的痕跡に作家の私的なまなざしを重ねながら、視覚的にコミットしようとする、それ以前の作品とは異なる方向性を明確に示した。新たな展開を見せた吉村の作品は、1995年に川崎市市民ミュージアムで開催された「現代写真の動向 another reality」展で、写真表現の新たな可能性を探る注目すべき作品のひとつとして選ばれて展示された。そこで発表されたのは、「分水嶺」を元にした作品で「審判」という題名がつけられていた。この展覧会には、吉村以外に 市川美幸、