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essay 「トポスの力学」LEWIS BALTZ 論

執筆  深川雅文


企画展 「ルイス・ボルツ▶︎法則」

場所  川崎市市民ミュージアム

会期  1992年10月10日〜11月23日



トポスの力学  TOPO-DYNAMICS (展覧会カタログ pp.18 - 21)


 1975年、ニューヨーク州ロチェスターにあるジョージイーストマンハウス国際写真美術館で「ニュー・トポグラフィックス」 展という耳新しい題名をもつ写真展が開催される。この展覧会には8人と一組の作家が紹介されたが、そのひとりに、ルイス・ ボルツの名があった。そして、本展への参加により、彼は、新たな風景写真の革新者として一躍脚光を浴びるようになる。(1)

 この展覧会は、風景写真をテーマに、当時の新たな動向に焦点をあてた企画だった。「風景」ではなく「ニュー・トポグラフィックス」という言葉がメインタイトルに冠されたのにはそれなりのわけがある。

 ひとつには、ここで紹介された写真家たちの作風がいずれも既存の伝統的な風景写真のジャンルに収まりきれないものであった。なんのドラマもなさそうな陳腐でありふれた場所、感情を押し殺したような冷徹なまなざし、旧来の風景写真の美学を無視したような奇妙な構図…このような傾向は、19世紀後半のアメリカ西部開拓写真に始まり、今世紀、エドワード・ウエストンやアンセル・アダムスらによって確立されたアメリカ風景写真の美学に真向から対立するものであった。こうした風景写真の新たな内実を指し示す言葉として、手垢のついた「風景」という言葉ではなく、新たな言葉が選ばれたのである。

 「トポグラフィックス」という言葉は、日本語で「場」を意味する「トポス」と「画法」などを意味する「グラフィックス」 からなる。「トポス」という中立的な言葉は、自然美や情感など 「風景」にまとわりついたさまざまな伝統的な概念を回避するのに好都合である。そして「グラフィックス」は、まさに表現の方法論への問いかけを含む言葉である。つまり、「ニュー・ト ポグラフィックス」とは、旧来の風景の概念をいったん括弧に入れ、「場」と写真の表現の関係自身を問いかけて、新たな回路を切り開こうという果敢な姿勢を示すモットーだったといえるだろう。

 たとえば、伝統的な風景写真では、レンズが向けられる場所は、感情移入の対象であり、撮影者/観照者は、美の表象をかたちにすることで、その場といわば一体化することが重要とされてきた。そこでは、また、眼前の場の視覚的外観を美や崇高といった普遍的な表象へと還元させることが大きな眼目となる。 この展覧会の作家たちの作品には、そうした合一化と還元のプ ロセスを拒否する冷徹なまなざしが支配的である。この新たな傾向の風景表現は、作者と対象の単純な二項関係のうえになりたつのではない。視覚的な外観を媒介あるいは跳躍台として、 見る者の想像力を、意識や精神と呼ばれるような表象や思念のより広い領域へと解放しそこに働きかけるイメージの創造こそが、この動向が切り開いた表現の豊かな地平なのである。言い換えれば、そこでは、「場」の外観は、なにか普遍的なもののシンボルとして作用するのではない。そうではなく、「場」は、なにか目に見えないあるものを視覚を通して告げ知らせる徴候(シンプトム)としての役割を果たしていると言えよう。「私の写真にとって重要なのは、見えないものを見えるようにすることだ。」(ボルツ)

 「ニュー・トポグラフィックス」展は、風景写真における「場」を、美的観照の対象としてではなく、より広い人間的関心の現われの場として捉える新たな視点を鮮明に提示した画期的な展覧会だったのである。

 本展に参加後、ボルツは、今日にいたるまで、きわめて密度の高い創造の営みを通して、ここに開かれたトポスの写真図像学の可能性を強力に推し進めてきた。その活動の核心をなして いるのは、トポス(場)を巡る作家のダイナミックな関わりである。それぞれのシリーズには、場と作家との深奥な交感の様相が示されている。その様相を辿ることで、作家が拡張させてきた写真宇宙の相貌を描いてみたい。

 彼は、70年代はじめから80年代後半にいたるまで、都市ならびに地域の開発が進行している場とその周辺を踏査し、そこで生まれてきている奇妙な光景の表情を捉えた作品群を次々と発表してきた。

 その出発点となったのが、「ニュー・トポグラフィックス」展が開催された同じ年に出版された処女写真集 『ニュー・インダ ストリアル・パークス』である。これは、51点の写真からなるカリフォルニア州アーバイン近辺の新興工業団地の記録である。 現代的な工場やオフィスの外観が、凍るようなまなざしで、即物的に捉えられている。緊張感の漂う構図、冷徹非情なまでの感情の抑制――その徹底ぶりは、かえって、美的表出を意図的に押さえ込もうとする作家の意志を際立たせている。ドナルド・ シャッドやリチャード・セラなどミニマル・アートとの類縁性が指摘されるゆえんである。

 見る者は、そこから、不可思議な印象を受け取る。たしかに、レンズの眼で明晰に捉えられた建物の外観がある。しかし、見かけの明瞭さに反して、その存在は多くの謎に包まれたままである。写真の左側のページには、建物の名称と場所が小さく表示されているが、それを読んだとしても、たいした手掛かりはつかめずに、さらに謎は深まるばかりである。「…パンティス トッキングが作られているのか、大量殺人兵器が作られているのかわかりはしない。」(ボルツ)。

 都市開発の触手の最先端部に現われてきた現代の不思議な光景。そこに注がれるボルツのまなざしは、都市文明のもつ論理そのものに大きな疑問符を投げかけるような乾いた響きをもっている。場と主題を変奏曲のように展開させながらも、その後の諸作品を貫くボルツ芸術の原型がここにある。

 1977年、彼は、グッゲンハイム奨学金を得て、ネバダへと向かい、同年、『ネバダ』のシリーズをまとめた。『ネバダ』には、『ニュー・インダストリアル・パークス』の余韻も感じられるが、さらに現象の内面に一歩踏み込み、都市開発を自然との葛藤として捉える視点を展示している。この視点は、1980年に発表された『パーク・シティ』において全面展開を見る。

 『パーク・シティ』は、ユタ州ソルトレイクシティの近郊に開発されつつあったスキー・リゾート都市の記録である。102点の写真からなる大胆かつ緻密な構造をもった本作品集は、街のロングショットから入り、縁辺から中心部へと次第に迫っていき、最後は中心部に建設中の別荘の室内のショットで結ばれる。ブルドーザーが掘り返し傷つけた大地、造成された土地に無造作に積み上げられた砂利の山々、無造作に放置された建築資材、均質なイメージをもった組立式住宅、これら人為の光景と周囲の自然との皮肉に満ちたコントラスト…。評論家ガス・ブレイデルは、本写真集のテクストの中で、ここに展示されている 景観を「不動産としての風景」と評し、利潤の追求を原理として変容を強いられる風景の意味を問いかけている。ひとびとの夢を育み実現するはずのリゾート地。その開発風景は、荒涼たるイメージに満ちており、開発の本質が、図らずも露呈されている。人間の秩序の創造は、視点を変えれば、実は暴力的な破 壊行為にほかならないのだ。

 現代文明の暴力性についてのボルツの洞察は、このシリーズを経て、さらに深められ尖鋭化される。そして、開発と破壊の問題から、より本質的な「秩序」の問題へと視野を広げていっ た。80年代に入ると、ボルツは、都市開発の現場から、都市周縁部にひそかに広がる不毛な荒地へと踏査の場所を移動させていく。

 荒地を主題にした代表作『サン・クエンティン・ポイント』 (1986) に収められた写真は、82年から83年にかけて、悪名高きカリフォルニア州立刑務所の跡地で撮影された。草木が不規則に生えている荒廃した地面、そこに散乱する空缶、瓶、ガラス片、プラスチックのごみ…混沌とした土地の異様な形相が、 クローズアップを多用したカメラワークで、まるで犯行現場でも撮るかのように、写し込められている。不思議なことに、冷徹なまなざしで見つめられた廃棄物たちは、光の横溢のなかで、 豊潤なニュアンスを見せ、ときおりはっとするような優美さを装って見る者を魅了してしまう。

 サン・クエンティンの廃虚的な光景は、現況を告げる単なる写真記録の領域を超え、人間文明の終末を告げ知らせる黙示録 の趣さえある。万物は崩壊する。ここには、人間文明も免れる ことのできない例外なき法則――エントロピーの法則――の存在を際立たせるイメージがある。

 『サン・クエンティン・ポイント』に続き85年に発表された小シリーズ『終わりなき大火/ポラー・サークル』には、黙示録的な風景が極めて象徴的に捉えられている。ノルウェーのスロバー島にある巨大なゴミ集積場にやおら燃え立つ炎の群れ。 それは、まるで、世界の終末の日に、人間文明を待ち受けている煉獄の業火のイメージであるかのようだ。

 87年には、フランス政府の公的な写真記録機関DATARから撮影の委嘱を受けてマルセイユ近郊の港湾都市フォスに赴き、『フォス:セクター80」のシリーズをまとめた。これは、現代の黙示録的な景観が、アメリカだけのものではなく、文明社会全体に広がるものであることを示してみせた。

 そして、88年、ボルツの風景のシリーズは、ひとつの転換点を迎える。パリのミシェル・ショメット・ギャラリーで『キャンドルスティック・ポイント』が発表されたのである。

 これは、カリフォルニアのキャンドルスティックにある海軍軍港跡地に広がる風景からなる。壊されて放置されたままの建造物の破片、捨てられたタイヤの山、無気味な植生を見せる草木、そして荒地の背景に迫る工業地帯やレジャー施設の影。この作品には、それまでの展開とは異なる側面がいくつか見受けられる。まず、これらの光景は、サン・クエンティンのようにクローズアップを多用せずに、つねにある程度の距離を保って写されている。特筆すべきは、展示のインスタレーションの方法である。84点の混沌とした廃虚的なイメージは、重層的にかつ適度に拡散させたかたちで壁面に布置され、見る者に対して、この地の全体像をかたちづくることをあらかじめ拒絶している。 こうした作品の不安定な配置全体が、エントロピー的な秩序の拡散のイメージを増幅させるのである。また、カラー作品が初 めて組み入れられたことも注目に値する。そうすることで、作品が醸し出す時間の質感にある変化が感じられる。たとえば、『サン・クエンティン・ポイント』は、現在形ではなく予言的な時間の質を帯びていたのに対し、ここではカラーがモノクロに混入することで、過去・現在・未来といった時制の枠組みそのものが宙吊りにされている。ボルツは、彼らしいひとを困惑させるものの言い方でこう語った。「モノクロは未来を、カラーは過去を意味する」(ボルツ) その真意はともあれ、二種類の写真を並置することは、ひとつの時間秩序にゆさぶりをかける巧妙な罠である。ここに、黙示録的境地そのものに対する作家の意識の微妙なずれを感じることができるのではないだろうか。

 それから1年後の89年の晩秋、ベルリンの壁が音をたてて崩れ去り、世界はまさに変動のただなかへとなだれこもうとしていた。同じ頃、ボルツは、すでに風景の場から去り、新たな領域へと狙いを定め、活動を展開しようと身構えていた。そして、まもなく、彼は、それまでの風景とは一見したところ全く異なるテクノロジーの世界へと駆け出していく。

 ハイテクの現場に踏み込んだ最初のプロジェクトは、いまや 世界をリードする技術先進国となった日本で始まった。89年早春のことである。わが国を代表するハイテク関連企業のひとつ、東芝が、ボルツと築地仁ふたりの写真家に同社が誇る最先端技術研究開発センターの撮影を委嘱したのである。そのときのボ ルツの仕事は、同社の新卒者向けの写真集『TOSHIBA」で発表 された後、同年、新たにカラー写真を中心とした『KAWASAKI』のシリーズへと展開している。(2)

 この作品群が放つイメージには、都市開発の最先端部分を捉えた初期の代表作『ニュー・インダストリアル・パークス』に見られるボルツ独特の懐疑的なまなざしの美学が色濃く感じられる。クールなまなざしでくまなく捉えられた研究所内部の光景。しかし、その場は多くの謎に覆われたままである。ボルツの言葉をなぞらえて言えば、「ここで、平和のための実験が行なわれているのか、核戦争のための研究がおこなわれているのかわかりはしない。」

 テクノロジーのシリーズは、写真の伝統から見れば、産業写真の系譜に連なるものである。今世紀の初頭、モダニズムの写真家たちは、機械や工場、そして工業生産物の中に、マシーン エイジの新たなイメージを見出し、レンズの透徹したまなざしで賛美した…たとえば、ポール・ストランド、チャールズ・ シェーラー、マーガレット・バーク=ホワイトなど……。ポスト・モダンとも称される現在に生きるボルツのテクノロジー作品は、即物的な描写の美学という点では、先人の伝統を継承しているものの、そのイメージの質感は、テクノロジーの賛美というよりも、痛烈な批評というべきものである。

 東芝での撮影の後、ボルツは、フランスで興味深いプロジェクトに出会う。フランスの公的な文化機関、ノール=パ・ド・カレ地域写真センターから、同地域をテーマにした記録を委嘱されたのである。92年の春、パリのポンピドゥーセンターで発表された最新作『夜警』は、このときの仕事をベースにした巨大な作品である。高さ約2メートル、幅約1メートルのカラー作品が12点つなぎ合わされ、見る者に立ちはだかる。本作品は、光ファイバー・ケーブルの塊や、実験用ダミー人形の頭部、ビデオモニターからの監視映像など、ハイテクの断片的なイメージから成る。なかでも、主要なモチーフになっているのが、リール近郊の都市ルーベで撮られた住民監視システムのモニター映像である。

 ルーベの中心部は、近年、凶悪な暴力犯罪の多発する地域として国内でも悪名を馳せているという。市当局は、地域の安全を守る最も効率的な手段として、ハイテクを駆使した高度な監視システムの導入を検討し、ビデオカメラによる市中心部の監視を開始した。こうした監視システムは、自由を脅かす危険を孕んでおり、およそ民主主義的な理念を掲げる国にはふさわしくないように思われる。自由・平等・博愛を掲げたフランス革命の国であれば、なおさらである。しかし、この計画は、言うべき抵抗もないままに、パイロット・プランの実施に至ったという。高度に発達したテクノロジーは、住民の日常や政治的な意識にまでなんらかの作用を及ぼしつつあるのではないだろうか。

 レンブラントの名画と同じ題名を採った『夜警』で、ボルツは、ハイテク開発の現場から、それが社会へと浸透しつつある現場へと視野を広げている。それによって、本作品は、ハイテクの発展と浸透を加速させつつある現代文明への批評の度合を一段と深めている。近年、彼は、テクノロジーのシリーズをさらに前進させ、将来、まとめあげる計画を語ってくれたことがあるが、本作品は、今後のそうした創作活動にむけた、注目すべき大きな一歩だと言えよう。かくして、ボルツの写真宇宙は、新たな爆発を起こし、さらなる膨張のプロセスへと加速し始めたのだ。


 処女写真集 『ニュー・インダストリアル・パークス』から最新作『夜警』に至る彼のこれまでの運動の軌跡を全体として振り返ってみると、ダイナミックな変転とともに、その運動を貫くひとつのベクトルが見えてくる。都市開発の現場、都市周縁に潜む荒地、そしてハイテクの領野へという彼が動いた場を線 で結んでみよう。すると、それらの場を包括するより大きな場の概念が浮かび上がってきはしないだろうか。それは、たとえば、「文明のフロンティア」という表現で言い表すことができるような場である。彼の動いたこれらの場は、西欧近代思想にね ざす現代文明が行き着いた果てに生じてきた場=フロンティア にほかならない。彼の芸術上の戦略は、フロンティアに現われ出てきた摩可不思議な光景を、精緻かつ暴力的な映像へと転化し、それでもって見る者に指し示すとともに、その感覚と思考 を挑発することにあるのである。

 作家が心に抱き続けてきたフロンティアへの執着は、彼がアメリカの西海岸、カリフォルニアに生まれたということと密に関わっているように私には思われる。カリフォルニアそのものが、19世紀後半に行なわれたアメリカ西部開拓の行き着く果ての地にほかならなかった。カリフォルニアは、二重の象徴性を持っている。ひとつは、アメリカの夢と国家的身体の拡張として、そして、西欧文明の新大陸での展開と拡大という観点から見れば、未踏の自然に対する西欧文明の記念すべき大勝利のひとつとしてである。

 世界を席捲しているハリウッドの映画産業やディズニーランドがカリフォルニアという場所に生まれたということは、西欧文明の先端というこの地の象徴的性格をさらに深めるものである。というのも、科学技術の発展による進歩という西欧文明の神話は、人間の限りない欲望や夢の充足と拡大という欲望原理と表裏をなして浸透してきたふしがあるからである。してみれば、この地に、人間の夢と欲望を果てしなくかきたて、満たし、消費する巨大な娯楽装置の極致が姿を現わしたとしても、ゆえなきことではあるまい。 青い空の下、陽光ふりそそぐ楽天地カリフォルニアという広く行き渡ったイメージがある。それに比べて、ボルツが捉えたこの地のイメージは、なんと殺風景で、冷ややかなことか。彼は、ロスアンゼルスの南東に位置するニューポート・ビーチで 生まれ育った。少年時代、自宅の周囲には、開発の嵐が吹き荒 れていたという。いたるところで、道路工事が行なわれ、雨後の竹の子のように新興住宅が建設されていた。彼は、あるインタビューでその頃のことを振り返り、子供ながらに、環境の急速な変化に眼を見張り、なにかたいへんなことが起きつつあるという恐怖感にさいなまれたと述懐している。作者の生まれた場は、彼の心の中に恐るべき強迫観念(オブセッション)を植え付けたのである。

 ボルツの表現は、生まれ育った地と抜き差しがたい関係にある。他方で、たとえば、91年にはオランダ・アムステルダムのステデリク美術館で個展開催、92年には、ポンピドゥー・センターで新作を発表するなど、その作品は国際的な規模で共感者を見出し、評価を深めてきた。これは、ボルツの表現が抱え込んだ問題の地平が、特定の場から出発しながらも、西欧文明の根幹に関わる問題の地平と大胆に触れ合いながら、より普遍的な問題の場を浮かび上がらせることに成功しているからであろう。マーク・ヘイワース=ブースの論文『サン・クエンティン・ ポイント論』(本図録に収録)には、さまざまな国籍の観覧者がボルツのスライド・ショーから受けた強烈な印象を描写した下りがあり、その辺りの状況を生き生きと伝えている。1987年には、前述のフランスでの記録『フォス・セクター80』がまとめられるが、これは、彼のビジョンがヨーロッパにおいても有効な射程の広がりをもっていることを作品でもって実証したといえるだろう。

 こうした視野の広がりのなかで、彼は、88年頃から徐に、まなざしをある土地の風景からハイテクの現場へと転じていったのだが、この重大な転回の背景には、作家の抱く世界観の質的な変容といったものがあるように思われる。

 彼は、イタリアでの個展のパンフレットに、示唆に富む興味深い文章を寄せている。(3) そのなかで、「技術」と「流浪の民」への関心についてこう述べている。

 「…1988年になると、私は、技術と流浪の民というふたつの現象に心魅かれた。このふたつは、互いに関係しあい、世界の消滅というものに与かっているように思えたのである。……

 ここでボルツが思い描いている流浪の民とは、次のようなものである。技術革新が可能にした高度な情報処理装置と通信装置、そして高速移動機関を巧みに操り、利用しながら、ボーダーレスとなった世界を自由に駆け巡る現代の新たな流浪の民たち――彼らにとって、もはや特定の地域や土地はもはや重要な 意味をもたない。高度技術が作り出し、それによって均質化された国境を超えて広がる空間、そして情報が無差別的に変換される仮想空間こそが、彼らの活動の場であるのだから。そして、この文章の最後に、こう告白している。

 「……92年になって、私は、自分自身が世界を自由に行き来する流浪の民になっていることを自覚したのである。」

 彼の心境の変化は、次の言葉の中でより明確に述べられている。

 「……80年代の私の仕事は、黙示録的な含蓄をもっていた。 1990年になると、世界はある意味で終わってしまったように思われた。 ......」

 ボルツの言う世界の終わり、あるいは世界の消滅とは何を意味するのだろうか。そして、その後にいったいどういう世界が来ると言うのだろうか。

 次の言葉に耳を傾けてみよう。

 「……もはや黙示録は存在しない。黙示録は終わったのだ。今あるのは、どっちつかずのものの優勢であり、中性的で無差別的な形式の優勢である。…(中略)残ったものはというと、 索漠とし、無差別的な形式や、我々を手なづけようとするシステム自体の操作に与かる魅惑である。その魅惑とは、このうえなくニヒルな情熱であり、消滅した世界に特有の情熱である。……」 (4)

 これは、フランスの思想家ボードリヤールが現代の新たなニヒリズムの到来について論じたテクストの一節である。テクノロジーへと進路を転じたボルツの近年の展開と先の彼自身の言葉を重ね合わせてみると、この思想家の主張は、ボルツが辿り着いた現在の心境と根底において響き合っているように聞こえ ないだろうか。

 最新作『夜警』は、冷たくも激しい情熱をほとばしらせながら、見る者に危険で魅力的な罠を仕掛けてくる。それは、ボードリヤールが描き示しているようなニヒルな魅惑が支配する世界像へのひとつの誘いなのかもしれない。

(ふかがわ まさふみ 川崎市市民ミュージアム学芸員〔当時〕)


(1)‘New Topographics - Photographs of Man-altered Landscape

– 1975 International Museum of Photography at George Eastman House 他の作家はつぎのとおり。ロバート・アダムス、ジョー・ディール、フ ランク・ゴールケ、スティーブン・ショア、ニクラス・ニクソン、ヘンリー・ウェッセ ル、ジョン・ショット、ヒラ&ベルント・ベッヒャー。

(2) 『TOSHIBA』.1989 発行:東芝人事教育部 制作:ユー・ピー・ユー

(3)LEWIS BALTZ OPERE/PROGETTI’1991-1992 Civi Musei, Sale“San FranciscoEmilia

(4) 18° Section deSIMULACRES ET SIMULATION,Jean Baudrillard, 1981 Edition Galilée Paris



企画展 「ルイス・ボルツ▶︎法則」

場所  川崎市市民ミュージアム

会期  1992年10月1日〜11月23日



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